前回、仏心は文字や言葉によって伝えることのできない「不立文字、教外別伝」であるから悟りの境涯によってのみ理解できるものだと述べました。
さらに誤解のないように申せば、それは観念に囚われてはならないということであり、けっして経や教典が劣っているというものでは全くありません。
道元禅師は正法眼蔵(仏教の巻)の中で、とくに「経」に対する態度について強く教示されています。
「諸仏の道現成、これ仏教なり。」(もろもろの仏のことばの実現したるもの、それが仏教にほかならない)と冒頭で示されています。
ここでいう「仏教」とは「もろもろの仏のことば」すなわち「経」の意味だととらえてください。
そして「教外別伝の謬(あやま)った説を信じて、仏の教えをあやまってはならない」と明言されております。
教外別伝の「教」とは「経」のことであり、それは同時に「仏心」そのものです。
「別伝」ということばに惑わされると「経」と「仏心」が別物だと謬ってしまうのです。ここに禅師は釘を刺されているのです。
「その正伝した一心を教外別伝という。それは三乗十二分教、すなわちもろもろの経典の語るところとは、まったく別のものである、と。
また、その一心こそ最上のものであるから、直指人心、見性成仏と説くのである、という。
そのいい方は、けっして仏教のものではない。
そこには自由にいたる活路もなく、全身にそなわる修行の輝きもない。
そんな男は、たとい数百年数千年の先輩であろうとも、そんなことを言うようでは、仏法も仏道もまだ分かってはいない、通じてはいないのだと知るがよい。」(正法眼蔵・仏教 増谷文雄氏訳)
道元禅師は「教典の他にも法がある」「教典は戯れである」「一心と教典は別のものである」「一心こそ最高のものでありそれを感知した者でなければ成仏できない」などという解釈はまったくの謬(あやま)りであり仏法でも仏道でもないと批判されているのです。
さらに、「仏の教えが一心であることも知らず、一心がすなわち仏の教えであることも学ばないから、一心のほかに仏の教えがあるなどという。その汝がいう一心は、まだ一心ではあるまい。また仏の教えのほかに一心があるなどという、その汝がいう仏の教えとは、けっして仏の教えではない。」(正法眼蔵・仏教)
禅師は、「一心」と「教典」を区別して「教外別伝」を解釈することはまったくの誤りである。「仏の教えが一心であり、一心がすなわち仏の教えである」と繰り返し主唱されているのです。
「かくて、知るがよい。仏心というのは、仏の眼睛である。破木杓(はもくしゃく)である、もろもろの存在である、三界であるがゆえに、山海国土・日月星辰である。
つまり、仏教というのは森羅万象である。」(正法眼蔵・仏教)
「仏心」とは、仏の眼であり、壊れて役に立たない物であり、山海国土であり、月や星である。
つまり三界に存在する森羅万象が仏心であり仏教であるというのです。
破木杓(はもくしゃく)とは、こわれた柄杓とか底の抜けた桶とかのことで、なんの用も立たない物の例えです。
三界とは、「三界六道」といわれる輪廻転生の世界を欲界(よっかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の三つに区分した世界のことです。
三界も六道も同じ輪廻の世界のことですが三界は精神面からの区分であり、六道は苦楽のありさまからの区分であるのです。
六道はご存知のように地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つですが、では三界とはどんな世界なのでしょうか。
欲界とは、地獄界から人間界までの欲望の世界のことです。
色界とは、その欲望のない物質だけの世界のことです。般若心経の「色即是空」の「色」つまり「物質」の世界だと解釈すればよいでしょう。
従って、無色界とは、その物質の存在を超えた世界ですから「空」の世界だと理解したらよいでしょう。
禅師は正法眼蔵「三界唯心」の冒頭でつぎのようにも示されています。
「釈迦牟尼仏は仰せられた。『三界とはただ一つの心である。心のほかにまた別の法はない。心といい、仏といい、衆生というもこの三つは別のものではない』
この一句の表現は、如来一代の総力をあげてなれるものである・・・「三界唯心」とは、如来のさとりのすべてである。一代のすべてがこの一句に結晶しているのである。」
「華厳経」の中の「三界唯一心 心外無別法 心仏及衆生 是三無差別」を引用されたものであり、「三界は一心である」「衆生も一心である」「一心以外のものはない」「三界は一心であり如来の悟りのすべてである」と明示されているのです。
そこで注意すべきは、そうか、仏教は結局は「唯心論」か、などと思ってはなりません。
禅師はそんな誤解のないように「三界はすなわち心といふにあらず」と言われています。
これは唯心論に陥らないようにという意味のことばですから誤解のないように願います。仏教は唯心論とはまったく別次元のものです。
禅師はさらに法華経・譬喩品のなかの句をあげられて仏と三界の関係について説かれています。
「このゆえに、釈迦大師道、『今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是我子』」
(また釈迦牟尼仏はおおせられた。『今この三界は、みなこれ我がものなり。
そのなかの衆生は、ことごとくこれわが子である』)「正法眼蔵・三界唯心」
お釈迦さまは申されました。
「今この三界はすべてわたしのものであり、衆生もすべてわたしの子どもである」と。
このことばこそ仏教の真骨頂だと拙僧は思うのですが、いかがでしょう。
お釈迦さまのこの「教(経)」こそ大慈悲心であり、それを信じきった者こそ救われるのです。
それを確信するためにはこの「今」と「我」と「子ども」についてしっかりとした理解が必要なのです。
この「今」とは、過去・現在・未来のすべてが含まれている「今」なのです。
仏法でいう「今」には過去も現在も未来もありません。言い換えれば過去も現在も未来も「今」に集約されてしまっているのです。
だからお釈迦さまは過去の仏さまではなく今でも生きておられるのです。
だからわれわれはみな「今」お釈迦さまの「こども」なのです。
「こども」といっても親子に上下関係はありません。
「惟一心」を持った親子ですからその関係はまったく平等なのです。
お釈迦さまの申される「我」とは、応身仏・化身仏・法身仏のことであり、それはお釈迦さま自身であり同時に森羅万象それ自体であるのです。
だからお釈迦さまと「わたし」とは久遠の仏親子なのです。
「三界唯一心」・・・わたし自身かけがえのない存在であり、わたし自身が久遠の仏であることを教えてくれているのです。
合掌