つい最近、ある民放の番組であるジャーナリストが、ノーベル平和賞受賞者であり現在の世界仏教界のリーダーといわれるチベット仏教の最高指導者14世ダライ・ラマ法王に尋ねていました。
「日本では今大変ないじめの問題が起こっていますが何が原因でそうなったのでしょうか。
またどうすればよろしいのでしょうか。」と。
これに法王は、「日本は世界で有数な先進国でありますが、その発展のためにすべて知識優先の教育をしてきた結果子供達に十分な愛情が与えられなかったのです。
子ども達は愛情の不足により優しさとおもいやりの心が欠けてしまったのです。」と語っておられました。
いじめは愛情の不足が原因だと明言されているのです。
わたしも前回の法話の終わりに、「優しさとおもいやりの心」が日本人の心から欠けてしまったのは徳育不在の教育によってもたらされた心の貧困から生まれた「愛情不足」であったと申しました。
そして「今こそ徳育に眼を向け、その実践について鳩首凝議すべきなのです。」と提言いたしました。
それを受け今回は徳育とは何か、そしてその実践とは何かについて考えてみました。
はじめに徳育の欠如についておさらいしておきましょう。
戦前のそれまでの道徳教育がすべて否定されてしまったことで、家庭も学校も子供に対する躾の"規範"を失ってしまいました。
その戦後教育の走りがいわゆる団塊の世代でした。
実は私自身団塊の世代なのです。ちょっと当時を偲んでみました。
どこにでもガキ大将がいて徒党を組んでよく野原を走り廻りました。
よく遊んだという記憶の一方いつも腹を空かしていたような気がします。
遊びの中でもいつも食べられる物を探していたような気がします。
柿や栗、枇杷、蜜柑など野生のものもそうでないものも結構漁りにいったものです。
こどもながら何が食べられるかよく知っていました。
今思うにそれだけ食べ物が少なかったのだと思います。
今の子供がその辺に生っている柿とか蜜柑とかを採って食べるということはまずありません。
家には物が溢れ慢性飽食状態になっているのです。
家にある果物さえあまり手を出しません。
昔は食べ物は粗末で少なかったけど家族は皆集まって楽しく食卓を囲んだものです。
サツマイモが蒸けたといってはお隣さん配ったりお裾分けしたりしたものです。
当時はみんなが貧しかったせいか特にひもじかったという思いはありません。
子供はみんな外で遊び、子供が子供らしかったと思います。
しかし、そんな楽しい時代は小学校までで、中学校に入ると高校進学のための厳しい受験勉強が待っていたのです。
「できたら高校に行きたい」と誰もが希望するようになり一気に高校進学率が高まりました。
その波はやがて大学進学熱となりいよいよ高学歴社会が始まったのです。
みんな物の豊かさを目指しました。
三種の神器と所得倍増をキャッチフレーズに物質主義が加速されていったのです。
子ども達はその物質主義がもたらした知育偏重教育にどっぷりと浸されたのです。
その結果は前回までに縷々述べたとおりの徳育欠如の教育でした。
徳育が失われたさらにもう一つの原因が「宗教の欠如」です。
これこそ一番の問題なのです。
それは核家族化がもたらしたものでした。
これについても何度も言ってきました。
人は経済的に裕福になると個人主義になります。
個人主義は人との関わり合いを避けます。
これは家族や肉親の間でも例外ではありません。
家庭に個室が急速に普及したのもこれによるものです。
「家付きカー付き婆抜き」などというイヤな言葉が流行りましたが、これは若者の心がいかに身勝手な個人主義志向になっていたかを良くあらわしたものです。
戦後の団塊の世代に始まった物質主義は同時に個人主義を助長させたのです。
その団塊世代の子供、つまり団塊ジュニアが今の親になって核家族社会は"完成"されたのです。
みてください。そこには仏壇も神棚もありません。
親が神棚に向かって柏手(かしわで)を打つことや仏壇の先祖に灯明や線香を手向け合掌する姿を今の子ども達は知りません。
当然お爺ちゃんやお婆ちゃんに連れられてお寺に行くこともないのでお寺のことも知りません。
ちょっと余談になりますが去る10月の終わり頃、近隣のある小学校の3年生と4年生37名の児童が3人の先生に引率されて当山にやってきました。
当山のホームページを見て「体験坐禅」に見えたのです。
最後に質問の時間を設けたのですが色々ありました。
その質問内容から感じたのは彼らが如何に日頃神仏から離れたところで生活をしているかということです。
さて、日本には古来よりの神道や仏教があります。
それらを心の拠り所として日本人は文化と伝統を築いてきたのです。
家に神棚や仏壇が無いということは神仏に対する畏敬の念や、祖先や父母に対する敬慕の念が希薄になってしまうということです。
世界のどんな民族にも必ず宗教があります。
イヤ世界中の民族の中で宗教を持っていない民族は皆無なのです。
多くの民族が命がけで自分達の宗教を護っているのです。
つまり、人間には宗教が必要なのです。
というより宗教の中で生きているのが人間だと言うべきでしょう。
ですから、まず人間には絶対に宗教は必要だという認識を持って欲しいのです。
その絶対であり拠り所である宗教を持っていない人がいるとしたら果たしてどのような人でしょう。
おかしな宗教にかぶれておかしな精神になっている人を考えますと宗教の"効果"は決して侮れません。
このことからも人には正しい宗教が如何に必要であるかが分かります。
「あなたに宗教はありますか。」と聞かれて、「ハイ」と自信をもって言える人が今の日本人にどの位いるでしょうか。
あなたはどうですか?自信ありますか?はっきり言って、今の一般的日本人には宗教認識があまりありません。
これを「宗教の欠如」と言うのです。
そのことを認識した上で次に進みましょう。
次のテーマは宗教と徳育の問題です。
宗教が如何に徳育に拘わっているかということを知ってもらいたいのです。
まず、宗教とは何でしょう。
世界宗教といわれる宗教はどれも皆その基本教理は「愛と感謝」なのです。
これが仏教では「慈悲」と「報恩」になるのです。
ここでは仏教を通して考えてみます。
仏教でいう慈悲とは元々人に具わっている仏心のことです。
この仏心は信仰によってのみ開花するのです。
開花された仏心には慈悲心が表れるのです。
慈悲心とはすなわち優しさとおもいやりの心のことです。
仏教の命題に「修善奉行・諸悪莫作」があります。
文字と通り善行を為し悪を為してはならないという教えです。
「善い事をせよ。悪いことはするな」とは七歳の子供でも分かることです。
でもそれがともすると70歳の老人でも難しいことなのです。
なぜでしょう。
それは仏心が未開発だからです。
人は信仰のなかで仏心を開発し慈悲心を感得します。
その慈悲心の下で「修善奉行・諸悪莫作」が実践されるのです。
「善いことだからする」とか「悪いことだからしてはならない」というのは理屈です。
慈悲心には「理屈」がありません。
慈悲心いは「善いことしかできない」という理屈を超えた観念しかありません。
「善いことしかできない」ということは「悪いことはできない」ということです。
犯罪を犯す人のそのほとんどは悪いことと知っていてするのです。
詐欺や泥棒や強盗などが悪いことと知らない人はまずいません。
みんな重々承知して行う"確信犯"なのです。
これは善行に対しても言えることです。
困っている人を助けることや、奉仕活動は善いことだと誰もが分かっています。
しかしそれを実行するとなるとなかなか難しいのです。
なぜ難しいのでしょう。
それは損得勘定という理屈が働くからです。
慈悲心には一切の理屈が無いと言いました。
理屈を超越した慈悲心だからこそ「善いことしかできない」「悪いことはできない」という境涯に達するのです。
「善いことしかできない」という思考観念、これが慈悲心なのです。
信仰によって感得された慈悲心には一切の理屈はありません。
あるのは「善行」だけなのです。
つまり宗教とは人に本来具わっている仏心を開発し慈悲心を感得することです。
その結果理屈抜きに「修善奉行・諸悪莫作」が身に付くのです。
子どもの心を育てるのが「徳育」でありその基本にあるのが宗教であるというのが分かっていただけたでしょうか。
ダライ・ラマ法王の仰せられた「愛情の不足」とは宗教の欠如によるものだったのです。
正しい宗教の下では決していじめや虐待は起こりません。
そのためにも正しい信仰を持つことです。
最後にその実践についてちょっと触れておきましょう。
まず信仰を持つことだと言っても、信仰は強制されて出来るものではありません。
ではどのようにしたらよいでしょうか。
信仰は理屈ではないと申しました。
それはつべこべ考えるなということです。
理屈抜きに「形から」入ればいいのです。
まずあなたの家の仏壇に手を合わせるのです。
もし仏壇が無ければ用意してください。当然のことです。
そして仏様ご先祖様を崇拝し感謝を申し上げるのです。
初めはなんてことはありません。
信仰は継続からです。少しずつ確実にあなたの心は変化していきます。
必ず子供と一緒に行うのです。
宗教は学校で教えるものではありません。家庭で躾るものですから。
だからまず親です。親が率先して信仰の姿を子供に示しそして共に実践するのです。
そんなあなたの姿を通しこどもはご先祖さまや親に対しての敬慕の念を感得する筈です。
そしてやがて理屈を超えた「恩」と「感謝」の念が芽生えてきます。
感謝の先にあるのは「優しさとおもいやりの心」です。
合掌