今回は迦旃延(カセンネン)尊者のお話です。
対論や哲学的論議を多くされていることから「論議第一」と称せられました。
彼は婆羅門家の出であり、西インドのアヴァンティー国出身とか、南インド地方出身とかの説がありますがはっきりしたものはありません。
大変聡明な少年であった彼は、博学な兄のバラモン教の聖典の講義を一度聞いただけでその内容をすべて暗記してしまうほどでした。
その才能に嫉妬した兄はやがて迦旃延少年を憎むようになりました。
兄の嫉妬はひどくなる一方で、彼の身に危険を感じた父親は彼をアシタ仙人に預けることにしました。
アシタ仙人とは釈尊がまだシッダルタ太子と呼ばれていた子供の頃に、「この少年は将来仏陀になる人だ」と預言した人物だといわれています。
アシタ仙人のもとで弟子としてバラモンの教えを学んでいましたが、ある日どうしても解けない偈文に出くわしました。
それを知ったアシタ仙人は彼に釈尊を紹介することにしました。
釈尊は懇切丁寧にその偈文の意味をお答えになりました。
この出来事が契機となって、迦旃延は釈尊の弟子となったのです。
ある日、彼は自分の出身国の王様から、「釈尊の教えを直に受けたいので来ていただけるように頼んでほしい」ということの依頼をうけました。
実はそれまでにも何人かの家来がすでに釈尊にそのお願いに行っていたのですが、そのうちの誰一人戻ってきてはいなかったのです。
その理由はなんと、釈尊にお会いしてその教えに感動してみんな弟子になってしまったからなのです。
修行がすすみ立派な弟子となっていた彼はあらためて釈尊に自国に巡錫(じゅんしゃく)して欲しい旨お願いしました。
すると、釈尊は自分に代わって迦旃延自身が帰国するように申されたのです。
彼はその釈尊のお言葉を命として帰郷し国王はもとより自国の津々浦々布教されたのです。
やがて仏教がインドに広く広まったのはそれが大きな要因だったとも言われています。
ある日、迦旃延は世尊に悟りの根本教義とされる三法印について尋ねられました。
迦旃延
「三法印とはどんなものなのでしょうか」
世尊
「第一は『諸行無常』、第二は『諸法無我』、第三は『涅槃寂静』、
これに『一切皆苦』を加えて四法印とすることもある。
『諸行無常』とは、一切の存在は故に常に変転していて一瞬たりとも同じ状態にとどまってはいないということだ。
なぜならば、一切の存在は現象だからだ」
迦旃延
「よく分かりませんが、現象とは流動しているものだと考えれば少しはわかる気がします」
世尊
「現象に実体がないことが分かれば、そこに『我』は無いということになる。
これがすなわち『諸法無我』の意味なのだ。
つまり、一切の存在には『我』がないということなのである。
」
迦旃延
「あらゆる存在には実体と呼べるようなものはないということですね。
でも、「わたし」という人間には、少なくとも『わたし』という『我』がどうしても存在しているように思えるのですが。
もし、我という実体がないとするならば、私がこの世に生まれる以前にも死んだあとにも何もないということになるのですね。わたしにはそれが納得できません」
世尊
「婆羅門教においては、個々の存在に我と呼ばれる実体があることを認め、梵(ぼん)と一体になると説いているが、私の教え(仏教)はこのような立場を否定したところから出発しているのだ」
迦旃延
「もしこの世が無常であり、我と呼ばれる実体がないとするならば、私たちは何を目的として生きていったらよいのでしょうか」
世尊
「その答えこそが第三の涅槃寂静なのだ。
つまり、そのような無常にして無我なる存在にとらわれることなく、あらゆる欲望の火を吹き消した状態こそがニルバーナ(涅槃)なのだ。
涅槃に達すればそこはまさに静かな寂静の世界である。
そこはもはや世の中の存在や現象にわずらわされることのない境地なのだ。
この境地に到達したものこそ仏陀なのだ」
迦旃延
「まだよくわからないようですが、どうして一切皆苦を加えて四法印とする場合があるのですか」
世尊
「無常なるものを常であるかのように錯覚し、無我なるものを有我と錯覚することで、人間の心に執着が生まれるのだ。
一切の苦悩の原因はその執着の心なのだ。
名誉も財産も愛も肉体も健康も、そして命すらも、すべては無常なのだが、それを認めないところに人の苦悩があるのだ。
つまり生きている以上、否、生きていること自体所詮『苦』それ自体であるということだ」
迦旃延
「生きていること自体が苦である・・・つまりそれが『一切皆苦』ということですね。では、その「苦」から人は解放されないものでしょうか」
世尊
「その疑問こそ大事なのだ。
その疑問に答えるために仏教があり、仏教こそその答えを持っていると言えるだろう」
迦旃延
「その答えをお示しください」
世尊
「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の実体は『無我』と『無常』であるということは話したとおりである。
この無我と無常という実体がわかれば、名誉も財産も愛も肉体も健康も、そして命すらも、すべて同じ無我であり、無常であることが分かる筈である。
その無我と無常の実体が『仏性』だと解れば『苦』は『楽』に蘇るのである。
つまり『一切皆苦』が『一切皆楽』になった瞬間である。
これがまさに悟りである。
そこを極楽というのである。
だから、死んで極楽に往くのではなく、生きているうちに極楽に往くことに意味があるのだ。
そのためには三法印を信じ、悟りのための修行にひたすら精進するより仕方ないのである」
警視庁が発表した昨年の自殺者は3万2845人でなんと12年連続で3万人を超えています。
最も多い原因は健康問題であり、次いで生活苦となっています。
人の心が脆くなってしまっているのでしょうか。他人ごとではありません。
絶望の淵に追いやられている人に、人生「一切皆苦」と説得することはできません。
どんな真実も心にゆとりがなければ受け入れることはできないからです。
だから人は心のゆとりこそ大事なのです。
心のゆとりは普段の生活から生まれるのです。
その普段の生活を安定させてくれるのが宗教です。
仏教は宗教ですが真実の道理が説かれている意味から言えばまさに「哲学」です。
真実の道理を知り心を豊にするのが仏教です。
心を護るために是非この正しい信仰を持つべきです。
人生はまさに心次第なのですから。
合掌