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法話

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法話--平成21年3月--

こころ(9)-- 平常心是道--

前回に続いて公案をとりあげました。
無門関第十九則「平常是道」(びょうじょうぜどう)です。

「平常心是道」(びょうじょうしんこれどう)という言葉は特に有名ですが、この公案から出ている禅語です。
この意味は「ふだんの心が悟りである」ということです。
では、その「ふだんの心」とは一体何でしょう。それが今回の主題です。

本則
南泉、因みに趙州問う、如何なるか是れ道。
泉云く、平常心是れ道。
州云く、環って趣向すべきや否や。
泉云く、向かわんと擬すれば即ち乖く。
州云く、擬せずんば争でか是れ道なるを知らん。
泉云く、道は知にも属せず、知は是れ妄覚、不知は是れ無記、若し真に不擬の道に達せば、猶大虚の廓然として洞豁なるが如し、豈に強いて是非す可けんや。
州云く、言下に頓悟す。

南泉は趙州が、「道とはどんなものですか」と尋ねたので、「ふだんの心が道である」と答えた。
趙州は問うた、「それをめざして修行してよろしいのでしょうか」 南泉は答えた、「めざそうとすると、すぐにそむく」 趙州、「めざさなかったら、どうしてそれが道だと知れましょう」 南泉、「道は知るとか、知らぬとかいうことに関わらない。
知るというのは妄覚だ、知らぬというのは、無記だ。
もしほんとに『めざすことのない道』に達したら、ちょうど虚空のようで、からりとして空である。そこを無理にああだこうだと云うことなどできない」 趙州は言下に悟った。

趙州禅師といえば第一則の"無字の公案"でも有名ですが、その悟境の透徹さと行持の清高さから、禅宗史上その存在感は別格です。
趙州は十八才にして開悟されたといわれています。
それからさらに二十年の修行をされ、六十才で出家され、この公案で徹底されたといわれています。この時七十三、四才だったとのことです。
120歳まで生きられたといわれるまさに傑僧です。

ある時、趙州は師の南泉禅師に「(悟りの)道とは何ですか」と尋ねました。
南泉はそれに対して「平常心是道」(ふだんの心が悟りへの道だ)と答えました。
趙州はさらに「ではそれをめざして修行すればよろしいでしょうか」と尋ねました。
すると南泉は「めざそうとすると、すぐそむく」(そむくとは外れるということ)と答えました。
趙州はそれに対して「そんなことをおっしゃっても、それを目指して修行しなかったら、どうしてそれが道だと解るのでしょう」と尋ねました。
なるほど当然の疑問です。

「悟り」という目標を目指して修行するのでなければ悟れないのではないかというのが趙州の疑問です。
それに対して南泉は、道(悟り)は知るとか、知らぬとかいうことではない。
知るというのは妄覚だと答えました。妄覚とは煩悩妄想のことです。

つまり、悟りを「知る」(認識する)こと自体煩悩妄想だというのです。
ここが一番大事なところです。まさにここがこの公案の勝負どころと言ってもよいでしょう。
それはその認識できない"ところ"がこの公案の答えだからです。
そこを「無記」と言っているのです。

南泉はさらに説明しています。
「もし、真に疑いようのない道に達してみると、それは虚空のごとくああのこうの云うことのできない一切の分別の無いカラットしたところである」

「疑う余地のない道」とは、思慮分別、自我意識のまったく無い無我無心の"ところ"であり、「廓然として洞豁」、つまり「虚空のごとくああだこうだと説明のできない一切の分別の無いカラットしたところ」だと言うのです。

さらに、そこは「豈に強いて是非す可けんや。」(ああだこうだというものは何も無いところ)だと言ったのです。 趙州はこの一言で悟ったのです。

さすが天才趙州です。
師南泉の「虚空のごとくああだこうだと説明のできない一切の分別の無いカラットしたところ」「そこはああだこうだというものは何も無い」と言う言葉で即座に悟ってしまったのです。
それには恐らく南泉自身も驚いたことでしょう。

しかしいくら悟ったとはいえまだまだ悟りには深さがあるのです。
無門禅師は提唱の中で評しています。
「趙州、たとい悟り去るも、更に参ずること三十年して始めて得てん。」 悟りと言ってもまだまだ本物ではあるまい。本物の悟りを得るにはもっともっと修行してあと三十年は掛かるだろうと言っています。

では趙州の悟ったものは一体何だったのでしょうか。
それは「無心」です。
「ああだこうだというものは何も無い」とは「一点の曇りもない心」であり、それはすなわち「無心」のことです。
「無心」については、前回の「達磨安心」でクドクド"説明"した通りです。
ですからすでにお分かりのように、この公案の狙いもまさに「無心」の実体を悟ることにあるのです。

では「無心」の実体とは何でしょう。それは「あるがまま」です。
因みに敢えてやぼな"説明"をしてみましょう。
例えば、おかしい時には笑いますが、普通はあるがまま笑いますよね。
悲しい時にはあるがまま悲しいですね。
腹が立つ時はあるがまま怒り、楽しい時は"あるがまま"楽しいですね。

笑っているときに、何故笑っているのか考えません。
悲しいときに、「今自分は悲しんでいるな」とか思いません。
腹が立っているとき、「今ここに腹を立てている自分がいる」などと考えません。
「ただ可笑しい」「ただ悲しい」「ただ腹が立ち」「ただ楽しい」・・・それが「あるがまま」です。

「悲しい」のも「可笑しい」のも「楽しい」のも、「ぼ~と」しているのも、更には眠っているのも、どんな心の状態であれ、それが「平常心」なのです。
そしてその実体が"無心"だとすれば「平常心」そのままが「道」(さとり)だと悟れるのです。

ですから「道」(さとり)は「あるがまま」の「そのもの」です。
「そのもの」ですから、"それ"を意識すれば即座に"分別"になってしまい、すなわち「道」(さとり)から外れてしまうのです。
実体を悟るとは「そのもの」に成り切るということです。

敢えて"説明"すればそういうことです。
しかし、説明での理解は想像の域を出ません。
「想像」はいわゆる絵に描いた餅です。
絵の餅は食べられませんから本当の"味"は分かりません。
本物の餅を食べるには一切の分別や理屈を全部捨て切って、"あるがまま"の"それ自体"を味わうしかないのです。
無門禅師は頌で提唱しています。


春に百花有り秋に月有り。
夏に涼風有り冬に雪有り。
若し閑事(かんじ)の心頭に挂(かか)る無くんば。
便ち是れ人間の好時節。

「春には様々な花が咲き、秋は月、夏の涼風、冬の雪。もしつまらぬ事柄を心にかけることがなければ、それこそその人の生活はまさに幸せの日々である。」という意味です。
閑事(かんじ)とは「むだごと」とか「妄想」のことです。
好時節とは「幸せの日々」ということです。
つまり、妄想を捨て去った人はそれこそ幸せの日々であるというのです。

ここで思い起こされるのが道元禅師の詩「春は花夏ほととぎす秋は月、冬雪さえてすずしかりけり」です。
この詩は単なる和歌ではありません。諸法実相が詠われているのです。
「諸法実相」とはまさに「あるがまま」ということです。

更に言えば、「あるがまま」は「心」に限りません。
「大自然」もまったく同じなのです。 ここが特に重大なところです。
人の心と大自然の間には本来何の差別もないのです。
花もほととぎすも月も雪もみんなあなたの心と一つなのです。

春が来れば間違いなく草木は萌え花々はみごとに咲き誇ります。
夏にはホトトギスが大空を飛び交い、秋には月が鮮やかに天空に浮かび、冬には雪が降り積もって清々しい。まさに大自然の"あるがまま"です。

人の「心」も「大自然」も真実は同じ"あるがまま"です。
一切の分別妄想の無い「諸法実相」こそ「法身仏」であり「如来の姿」なのです。
峰の色谷のひびきも皆ながら我が釈迦牟尼の声と姿と(道元禅師)

分別妄想のまったく無い状態がまさに「あるがまま」です。
ですから無門禅師はさいごに「妄想を捨て去った人はそれこそ幸せの日々である」と提唱されているのです。

「あるがまま」に「分別」が付着することで「妄想」となるのです。
妄想は欲望の根源です。
欲望は油断するとつぎつぎと発展して尽きることはありません。
確かに人類は欲望のお陰で未曾有の発展と豊かな生活を手にしました。
しかし現実を鑑みると生活の豊かさがそのまま心の豊さになったとは決して言えません。

むしろ人類は生活の豊かさに追われ欲望の餌食になったと言えるでしょう。
その結果が地球の環境破壊、格差社会、そして戦争、テロの拡大です。
すべては生活の豊かさという名の欲望に取り憑かれた結果なのです。
このまま行けば人類は明らかに滅亡の方向を辿るかも知れません。
今こそその道を断たねばなりません。

そのためには真実を知ることです。真実を知ることで「心」の実体が分かります。
心の実体が「無心」だと分かれば諸悪の根源である「欲望」も「無心」であり「空」であることが分かります。
つまり心の実体が「空」だと悟ることで人は欲望から解放され本当の幸福を得るのです。 それがすなわち「悟り」です。

合掌

曹洞宗正木山西光寺