「善男子、善女人よ。わたしたちは、父親にいつくしみ(慈)の恩を、母親にあわれみ(悲)の恩をうけている。
なぜなら、人間がこの世に生まれてくるには、前世に自分が蒔いた善悪の種子(たね)を直接原因とし、父と母とを間接条件としているからだ。
父がなければ、わたしたちはこの世に生まれてこないし、母がなければ育つことができない。
(父母恩重経:ぶもおんじゅうきょう)
父母恩重経のはじめの方のことばですが、申すまでもなくあなたはあなたの両親がいてこそ今のあなたが存在するのです。
今のあなたの「存在」は絶対のものですね。そう認識できますか?
だとするとそれは同時にあなたの両親も絶対の存在ということになります。
例えあなたの両親が今健在であろうと故人であろうとその「存在」の意味は変わりません。
はじめから少し難しくなってしまいましたが、ここでは先ずその「存在」の意味を考えてみましょう。
その「存在」が絶対ということは永遠ということです。
あなたもあなたの両親も永遠の存在なのです。
これはすなわちあなたも両親もそしてご先祖様も同じ永遠の存在だということになります。
その「永遠の存在」とは言い換えれば「永遠の命」ということです。
つまり今のあなたは「永遠の命」という「恩」を戴いているのです。
その恩は「絶対の恩」です。
絶対とは不変ということです。不変とは実質が変わらないということです。
増減が無いということです。
死んでもう何十年も経ったからといってその恩が薄れることはないのです。
この人間世界の常識ではすべてのものが時間と共に確実に薄らいでゆきます。
しかしこの絶対の恩は「絶対」だから決して薄らぐことはないのです。
もう何年もお中元とお歳暮を贈ったから大体恩はお返し出来ただろうというような世間の恩義とは別時限のものなのです。
時間が経って薄らぐのは人の記憶と気持ちと器量だけです。
イヤ「罪」も確実に薄れていくとされています。
余談ですが、わたしが納得できないものに「時効」というものがあります。
どんな罪を犯したとしても時間がくれば罪を問われないという摩訶不思議な制度です。
罪が問われないということは無罪と同じです。
一定の時間が過ぎれば免罪になるというのはおかしな理屈です。
宗教的には罪は罪であってどんなに時間が過ぎようがその罪が薄らぐことはないのです。
ちょうど今日のニュースにありました。
若い小学校の先生を殺害した犯人が時効が過ぎて自首したそうです。
その後の民事裁判の内容が報じられていましたが、民事においても時効が成立していたため、たいした賠償金も無いそうです。
そんな僅かな賠償金をめぐってなお犯人は最高裁まで争うとか言っていたそうです。
そんな犯人ですからいまだに謝罪も無いそうです。
マスコミも時効が成立していると言うのならその犯人の顔をはっきり出したらどうでしょうか。
遺族が「怒りと悲しみに時効はありません。」と言っていましたが、まったく気の毒です。
これもちょうど今日のニュースでした。
奈良の女児誘拐殺人事件の一審で死刑を告げられた小林薫被告は自ら死刑を望み、遺族に対して悪びれた様子もなく何の謝罪も無かったそうです。
どちらもまったく理不尽なことです。
しかしですよ、例えこの世で裁かれなくとも必ず来世が待っているのです。
わたしの口癖ですが、極楽浄土は仏を信じる人しか往けません。
しかし、地獄は別です。信じなくとも往ける世界なのです。
たしかに人である以上どんな人でも過ちや間違いを起こすことはあり得ます。
それが人間というものかもしれません。
ですからそのために仏教には「懺悔」(さんげ)があるのです。
懺悔とは心から悔い改めることを言います。
「滅罪」の方法は心からの懺悔しか無いのです。
親鸞聖人の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」の悪人正機説はあまりにも有名なことばですが誤解をしないでください。
この真意は心からの懺悔を前提としての理論なのです。
何の懺悔も無く、罪が問われないとか悪人が救われるなどということは絶対にありませんから。
いいですか。もし悪人殿がこのページをみていたらこのことをしっかりと肝に銘じてください。
え?悪人はこのようなページなど見ないですって?
なるほど。分かるような気がします。
このようなページを見てくださるのはあなたのような善人だけなのでしょうね。
間違いなくあなたは善人です。自信を持ってください。
これからも善人で居続けることを願っていますよ。
余談ですが、お陰様でこのホームページもアクセス数が先日一万件を超えました。
多くの善人に励まされているのですね。これからもガンバリます。
よろしくお願いします。
さて、本論に戻りましょう。
我々は親を通して「永遠の命」という「恩」を戴いていると申しました。
その恩を「絶対の恩」と言い決して薄れることのないものであるという・・・
その恩を知るにはまず親の恩を知ることから始まります。
ここで父母の恩の「十種の恩徳」を紹介しておきましょう。
「父母の恩の重きこと、まさに天に限りないのと同じである。
善男子・善女人よ、この父母の恩を詳しく説くならば、十種の恩徳となる。
第一に、懐妊中、母が子を守護してくれた恩。
第二に、出産の折、母が苦しみに耐えてくれた恩。
第三に、子どもが生まれたとたん、母がそれまでのすべての苦しみを忘れてくれた恩。
第四に、乳をのませ、養育してくれた恩。
第五に、子のために乾いた場所をゆずり、みずからは湿ったとことに寝てくれた恩。
第六に、子の不浄物を、洗い濯いでくれた恩。
第七に、子に食物を与えるとき、口にふくんで、苦きものはみずから呑みこみ、甘きを吐きて子に与えてくれた恩。
第八に、子のために、あえてみずからは悪業をすすんでつくってくれた恩。
第九に、子が遠くに行ったとき、子の安否を気遣ってくれた恩。
第十に、最初から最後まで、ひたすら子に慈愛をかけてくれた恩。
父母の恩の重きこと、天に限りがないのと同じである。
善男子、善女人よ、ではわれわれはこのような父母の恩に、いかにすれば報いることができるであろうか。
(父母恩重経)
お釈迦さまは、天に限りの無いのと同じくらい大きな父母の恩に報いるにはどうすればよいかと問われ、それには先ず「知恩」だと申されています。
恩に報いるには先ずその恩というものを知らなければなりません。
これを「知恩」といいます。
恩を知ることで人は感謝をします。
恩を知ることで人は優しくなれます。
恩を知ることで人は全てを許します。
恩を知ることで人は命の大切さや知ります。
恩を知ることで人は真実に目覚めます。
どうですか。
恩を知ることでいじめや暴力などの芽が育つ余地など無くなります。
そればかりかあらゆる犯罪が無くなりますよ。
わたしの持論ですが、こどもや世の中がこうも悪くなったのは核家族化が最大の原因だと言ってもよいでしょう。
その最大の問題点は、子ども達がお爺ちゃんお婆ちゃんから引き離されてしまったということです。
それは同時に仏壇や神棚が無いところで子どもが育ったということです。
古来子どもたちはお爺ちゃんお婆ちゃんから様々なもの、形有るもの形無いものを沢山教わり授かりました。
お爺ちゃんお婆ちゃんは御先祖様や仏さま神さまから沢山の「受け継ぐもの」を持っていたからです。
それが今では「宝の持ち腐れ」同然です。
「受け継ぐべきもの」を乗せている「心」が恩だと言いましたね。
恩を知るという「知恩」の環境がすっかり損なわれてしまったのです。
最近の子どもは悪くなったと言いますが、子どもには責任はありません。
子どもこそ被害者なのです。
それも分からず少年法の適用年齢をどんどん下げようとしていますが、本末転倒です。
問題は家庭だ、イヤ学校だ、やれ社会だ、などとそれぞれが勝手な議論をしているだけで的を射ているものは有りません。
エライ学者先生達も随分議論していますがとんちんかんな烏合の衆でしかありません。
だいたい今「恩」を話題にしたり問題にしたりする人が一人でもいますか?
世の大人は早くその核心に気がつかなければなりません。
そんな中ちょっとだけ気になるニュースがありました。
昨日阿倍新内閣が発足致しましたが、教育基本法の改正を最重要課題にしているそうです。
愛国心についても取り上げられているとか。
そのことでの賛否両論があるようですが、愛国心を否定する人の考えが私には理解できません。
教育は国家百年の計ともいわれています。
犯罪の年少化、教員の不祥事等を考えると教育改革に問題意識を持たれた阿倍さんをおおいに評価したいと思います。
是非大鉈を振って欲しいと思います。
ただ私の意見を言わせていただければ、対症療法では駄目だということです。
ただ徒に規則、罰則を厳しくするだけでは決して問題の根本的解決にはなりません。
人が決まるのはすべて「こころ」です。だから本当に必要なのは心の教育なのです。
「心の教育」とは、すなわち「恩」の教育です。
「愛国心」もその一つです。四恩の内の「国王の恩」と同じです。
誤解しないでください。
真の愛国心とはファシズムともナショナリズムとも違います。
国家の恩を知ることで感謝の心が育ちます。
それは人として国民として誇りと勇気と自信を育みます。
それは優しさと思いやりの心を育て命の大切さを知ることになります。
世界平和の基はまず人造りからです。
今回は大分話が大きくなってしまいましたが、ともかく阿倍新総理に期待しましょう。
しかしどうもわたくし的には宗教性のない政策にはどうも実効性があるようには思えません。
やはり宗教ですよ。
もはや人造りは宗教教育を通して「恩」を教えることでしか無いと私は思うのです。
次回は「不知恩」から生じる問題、特に虐待やいじめについて考えてみましょう。
合掌