前回は、人は恩を知ることで感謝を知り、おもいやりの心が育つのだと言いました。
「恩」を知らないところに虐待やいじめの心が芽生えるのだ・・・と。
なぜか今月に入り特に子どもの虐待、いじめによる自殺などのニュースが目立ちます。
虐待、いじめなどは人間の尊厳を否定する行為です。
この非人間性の行為が今日本中の家庭、学校を襲っています。
この現象は明らかに宗教教育の衰退がもたらした結果だとわたしは思っています。
「恩」の教えが無くなってしまったのです。
そこで今回は「恩」を失った「不知恩の戒め」ということで考えてみたいと思います。
つい最近の福岡での中2男子生徒のいじめによる自殺は、その発端が元担任教師によるものだったことから俄然社会の関心を集め、メディアはこぞって連日その成り行きをニュースで伝えています。
この件では、母親からの相談内容を教師が同級生に漏らしたことからいじめが始まったとのこと。
学校側はそんな事実をなんとか隠し通そうとしていたようですが「遺書」の存在が明らかになり仕方なく「いじめ」を認め雁首そろえて生徒宅に謝罪に訪れていました。
父親が特に激しい口調で「あの笑顔を返せよ!」と怒鳴っていたのにはおもわず共感と憤りを覚えました。
学校と教育委員会のいじめ隠蔽体質の実態が暴露された映像だけに大変なインパクトがありました。
ついそのちょっと前には北海道滝川市での小学6年生の女子児童のいじめによる自殺のニュースがあったばかりです。
「私が死んだらよんでください」と書かれたものを"遺書"とは言わずあえて"手紙"と言っていた教育委員会のそらぞらしい態度にも思わず腹立たしさを覚えました。
遺族の悲痛な訴えと周りからの批難と抗議によって一年以上も経ってからやっと教育委員会は「いじめによる自殺」と認めたというのです。
この理不尽な事件を機に学校や教育委員会の隠蔽体質に対してマスコミの攻撃的取材が始まったようです。
このほかにも福島では中一女子生徒がいじめを受け、柔道の練習と称して男子生徒から集団で投げ飛ばされ脳挫傷となり8時間もの手術を受けたにも拘わらず、3年も経った現在でも意識不明の重態が続いているという。
PTA臨時総会が開かれたそうですが、学校側は「休憩中に倒れた」として「学校に一切責任はない」とし、さらに保護者会では「もともと脳に障害があった」とさえ言い切ったとか。
その学校の校長はいまだにマスコミの取材を一切拒否しているそうです。
いじめは1980年代に社会問題化し、すでに20年以上も経っているのに実態はまったく変わっていなかったのです。
イヤ実態はむしろ悪化し深く潜行していたと言って良いでしょう。
それがこのところの相次ぐ「事件」の発覚で全国でのいじめの実態が続々明らかにされてきているというのです。
マスコミによれば小・中・高生のいじめは年間2万~3万件もあるそうです。
自殺は年間100人~160人にも上るとのことです。
その全てがいじめによるものとは言えないかもしれませんが、子どもが借金や病気を苦に自殺をするでしょうか。
ところが文部科学省の発表するデータによると、いじめによる自殺者は過去七年間毎年ゼロであるというからまったくの驚きです。
このギャップは一体何でしょう。
その理由は学校と教育委員会の「体面」と「保身」のための「責任回避」に他ならないのです。
「いじめ」を認めたら裁判に勝てないという思惑がすべての隠蔽工作に繋がっているのです。
保身と責任回避を優先させるところには必ず嘘と隠蔽の体質が発生するのです。
ウソと隠蔽は"犯罪"です。
これが行政組織の「体質」になっているとすれば、はっきり言って北朝鮮とかわらないではないですか。
学校も教育委員会も腐りきってしまったのでしょうか。
誤解の無いように申しあげますが、日本のすべての学校、全ての教師がそうだと言っているのではありません。
勿論真面目に一生懸命に子どものためにがんばっている先生も沢山いるのです。
これも今日のニュースでした。
23才の若い小学校の女性教諭が心の病で自殺をしてしまったそうです。
せっかく崇高な夢を持って教師になったばかりでした。
ご両親は労災の申請をしたとのことです。
学校の環境がかなり悪化しているのでしょう。
心の病にかかる教師も急増していてこの十年間で3倍にもなっているそうです。
教師にも学校にも異変が起こっているのです。
また、なんと虐待の多いことでしょう。
京都での三歳児が虐待によって餓死したニュースが報じられていました。
しつけと称してほとんど食事を与えなかったそうです。
たかが三歳児ですよ。何の罪もありません。
そんなバカ親の元に生まれてきたことを恨んでいるでしょう。
その無念を思わずにはいられません。
マスコミによりますと、昨年だけでも3万4千件以上の虐待が報告されているそうです。
報告されたものだけですから実態はもっと深刻な筈です。
そしてなんと毎年50人前後の子どもが虐待死しているそうです。
虐待白書によると、虐待の相談件数はこの10年間で15,4倍になっているとか。
虐待は実母によるものが59%、実父によるものが24%、両親あわせて83%であるという。
家庭にも大きな異変が起こっているのです。
このように家庭も教師も学校も行政もみんな明らかにおかしくなっているのです。
今まで何度も言ってきましたが、子どもにはまったく罪も責任もありません。
子どもは宝です。未来です。夢です。子どもが駄目になったら未来はありません。
「美しい国・日本」などと悠長なことを言ってはおれません。
早くなんとかしなければなりません。
責任はすべて大人社会にあることをしっかりと認識すべきです。
安倍総理はタイミングよろしく教育再生会議なるものを立ち上げました。
メンバーは各界から選りすぐられた十七人の有識者で構成されているそうです。
期待感も高いようで是非注目したいところです。
しかしですよ。
各界の有識者とは言いますが、宗教関係者が一人も入っていないところが気になります。
いささか疑問ですね。
これは今の宗教界が当てにされていないということなのでしょうか。
或いは教育に宗教の必要性が認められていないということなのでしょうか。
私はその両方だと思うのです。
確かに今まで宗教界は積極的に宗教教育をアピールしてこなかったということは言えるかも知れません。
でもこれはアピールしてこなかったというよりはアピールできる"人"が居なかったのだと私は思うのです。
残念ながら宗教界はまったくの"人材"不足なのです。
そこで持論を言いたいのですが、現在の倫理観や道徳観がこうも衰退し乱れてしまったその責任の大半は宗教界にあると私は思うのです。
一般的にその社会の倫理道徳観はその社会の文化通念に基づいているのです。
その社会の文化通念の多くは宗教に基づいているのです。
これは日本文化の大半が仏教思想や仏教文化に基づいているという事実をみても明らかなことです。
つまり日本の教育がおかしいということは日本の社会がおかしいということであり、その社会がおかしいということは即ち宗教界に責任があるということです。
学校だけがおかしいとか、家庭だけがおかしいとか別個に切り離せる問題ではないのです。
おかしくなった枝葉末節だけを捕らえ、議論してみてもほんとうの根本を理解しなければ意味はありません。
そこでわたしが主張したいのは、教育の退廃は宗教教育の退廃にあると認識すべきだということです。
宗教教育にもっと眼を向けるべきだと言いたいのです。
人が人らしく生きるための指針と指標を教えてくれるのが宗教だからです。
その基本の一つが「知恩」の教えなのです。
自分が生まれてきたのも、今生きているのも、様々な「恩」を受けているお陰だと知ることです。
くどいようですが、人は恩を知れば必ず感謝の心が生まれます。
感謝の有るところには必ずおもいやりの心が育ちます。
おもいやりの世界には決して虐待もいじめもありません。
おもいやりの心とは即ち菩薩の心、「自未得度先度他のこころ」(道元禅師・修証義)です。
エライ先生方、どうか今一度「仏教」に眼を向けてはいただけないでしょうか。
聖徳太子は申されました、「世間虚仮、唯仏是真」と。
太子が命がけで仏教を国教に採り入れたからこそ大和国家が栄えたのです。
「美しい国・日本」が生まれたのです。
今の日本が美しいと思いますか?美しさとは風景ではないのです。心の景色を言うのです。
もう猶予は有りません。是非一人でも多くの大人に真剣になって欲しいものです。
理由を聞かれて「からかいやすかったから」と応えたあの教師。
47才といえば教師として人間として最も分別の有る年代の筈です。
それが何の罪意識も持たずにからかっていたのです。
あえて彼の側から少し弁護するとすれば、彼もまた「恩」の教育を受けてこなかった"かわいそう"な一人だったと言えるのかもしれません。
しかし、事の結果責任は重大です。
「一生掛けて償っていく」と言っていましたが、彼は今人生最大の屈辱と苦しみを味わっているに違い有りません。しかたのないことです。
因果応報としてこの際しっかり受け留めてもらいたいと思います。
この因果応報の理論も仏教の重要な教理の一つです。
今回発覚した北海道や福岡の件は氷山の一角といわれています。
今なお必死で責任回避を模索している例の福岡の校長先生や教育委員会。
未だに事実を認めようとしない福島の先生方をはじめその他多くの隠蔽を続けるセンセイ方にもやがて必ず因果応報の"その日"がやってくるでしょう。
因果応報に"個人の勝手"は一切通用しません。
真実は必ず証明されるという因果応報の法則を知るべきです。
合掌