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法話

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法話--平成23年9月--

十三仏(釈迦牟尼仏)--その6 最後の教え--

真の「絆」とは

千年に一度と言われる大地震による大津波。
その天災によって引き起こされた原発事故という大人災。

天災は仕方ないという気持ちにもなりますが、人災は絶対に許されないという気持ちになります。
そしてその責任をとってもらわない以上絶対に納得できません。

では、今回のその責任の所在はどこにあるのでしょう。
国策として推進してきた原発事業である以上、その責任はまず、政府にあると言えるでしょう。
次に、その政治家を選んだのが一般国民である以上、一般国民にも間接的責任があり、国民は加害者、被害者双方の当事者だとも言えるでしょう。

しかし、なんといっても一番の加害者は東電であることに間違いはありません。
本日の新聞には、その当面の賠償額の見積が4兆5400億円だと載っていました。しかし、お金で済む問題では決してありません。
大事なことは誠意です。

ところが、ほとんど塗りつぶした事故報告書だとか、やたら難しい補償請求書の内容だとか、追加請求しないという一方的合意書の要求だとか、あまりにも被災者をバカにした態度に、東電に反省の様子はまったく認められません。

そのおごりから推して知るべきです。
電力独占巨大企業の長年のおごりがもたらした、起こるべくして起こった、まさに因果と言われても仕方ありません。
今回たまたま東電が「一番籤」だったというだけのことであり、東電でなくとも、いつか必ずや他の電力会社に起こることだったと認識すべきでしょう。

野田総理は原発の安全を最高水準にもっていくと言っていました。
それで安全が保障されるならば、是非東京に作ったらどうでしょうか。
原発はすぐには無くせないという人が多いようですが、それならば、その人達は自分のところに持ってきてもよいと認めてのことでしょうか。

自分さえよければと、考えている人は、東電の無責任の輩(もちろん中には良心的な人もいますが)と同等ではないでしょうか。
原発賛成、反対は、まず自分の立場を当事者、被災者の中に入れてからの判断です。
真の「絆」とは、相手の立場が理解できてはじめて生まれるものです。

自灯明・法灯明

王舎城の霊鷲山に住されていた釈尊は80歳を迎えようとされていました。

大悟成道されて以来40余年の歳月が流れていました。
多くの人々を教え導いて来られ、もはやその尊い役目も終わりに近づいてきていることを感じられたのでしょうか。

ご自身の身体の衰えを「私の体はちょうど古い車が革紐の助けを借りてやっと動いているようなものだ」(大般涅槃経)と表現されています。
身体の衰えとともにご自身の入滅の近いことを悟られた釈尊は、生まれ故郷のカピラドットウに向かって旅に出る決心をします。

侍者のアーナンダと数人の弟子を従えた、およそ350キロもの長旅です。
ご高齢の釈尊にとって最後の旅立ちとなったのです。
その様子が記されているのが大般涅槃経です。

王舎城を出た一行は、まずアンバラティカーに行き、そこの王の園林に逗留し、次にナーランダー村に行きました。
ナーランダーは五世紀になって仏教の大寺院が建立されましたが、当時は広々とした農村地帯でした。

釈尊はマンゴー林に止住され多くの修行者に説法されました。
ナーランダーは5~12世紀には仏教教学の一大中心地として栄え、玄奘三蔵や義浄もここで学んでいました。
当地で研究された仏教哲学は法相宗として日本に伝わりました。

次に釈尊はバータリー村に行きました。
ここは当時はガンジス川南岸の船着き場としての小さな寒村でしたが、後にバータリプトラと呼ばれる大都市になりアショカ王の都城として栄えました。

釈尊はここからガンジス川を渡り、対岸のヴァッジー国に入りました。
対岸にあった村はコーティ村と言い、そこから更にナーディカ村を通ってヴァーサリー市に至りました。

釈尊は通る村々において、集まった村人達や随行の弟子達にそれぞれに適した法話をなされ、人々を励まし、鼓舞し、歓喜されたのです。

やがて釈尊一行は商業都市ヴェーサリーにやってきました。
そこには遊女アンバパーリーの園林がありました。
当時、修行者は土地の所有者に断り無く立ち入ることができました。
彼女は釈尊が自分の園林に止住されることを知り大変喜びました。

彼女は釈尊に対して心を込め敬礼しました。釈尊は法話を説かれ、訓戒し、鼓舞し、彼女の心を満足させました。
彼女は釈尊に食事の供養を申し出ました。釈尊は快諾しました。

そして、貴族の若者達が大勢で訪れ、釈尊を食事に招きましたが、先約があると言ってそれを断わりました。
身分制度の厳しいインドにおいて、遊女アンバパーリーの接待を優先されたのです。
供養を終え、喜びに溢れた彼女は自分の園林を教団に献じました。

一行が次の村、竹林村に到着した時に雨期が始まりました。
インドでは雨期が四ヶ月間続きます。毎日スコール性の強い雨が降ります。
それゆえ、釈尊はこの雨期の三ヶ月間、一ヶ所に止住してそこで修行をする「安居」(あんご)の制度を設けられていました。

この時も雨期が始まりましたので、弟子達にそれぞれ縁故者を頼って宿所を見つけ、三ヶ月の雨安居に入るよう命じられました。
教団は一ヶ所に留まらない遊行生活が基本でしたので、生活はとても不便で苦しいものでした。

しかし、このような苦しい生活に堪えて巡錫することが修行であり目的であったのです。
竹林村にて釈尊もいつものように雨安居の生活を始めておられたある日のこと。
釈尊はひどい腹痛に襲われました。釈尊は三昧に入りなんとか堪えておりました。
やがてその病気は治まり回復してゆきました。

侍者のアーナンダは釈尊の様子をみて、「仏陀よ、ご機嫌うるわしくお見受けいたしますが、師のご病気が心配で私は方角も道理もわからなくなりました。師が修行僧の教団に関して、何も言い残さないで涅槃に入られることはないであろうか、と考えて大変不安になりました。」

釈尊は申されました。
「それでは修行僧の教団は私に対して何を期待するのか。私は内外の隔てなく教えを説いてきた。アーナンダよ、如来の法には、何ものかを弟子に隠すような教団の握拳(秘密の教え)は無い。

アーナンダよ、今や私は老い、衰え、人生の終わりに達した。例えば、古い車が革紐で修理されて動くように、私の身体も、いわば革紐の助けによっているのだ。」

そして、弟子達が釈尊のみを頼りとしていることの非を諭されました。
「自己を島として住し、自己を帰依処として住せよ。他を帰依処とせざれ。
法を島として住し、法を帰依処として住せよ。他を帰依処とせざれ。」と述べられたのです。
これが即ち、釈尊の最後の教え「自灯明・法灯明」です。

「自己を拠りところとし」の真意は、修行こそ自己実現であるということ。
真の自己に目覚めることが仏陀であり、それが即ち極楽浄土の「唯我独尊」の主だということ。

「法を拠りところとせよ」とは、「法」は釈尊の教えであると同時に釈尊自身であるということ。この認識が大事です。
「法」は永久不変の真理であるから、釈尊自身も久遠の存在になるということ。すなわち「久遠仏」となって説法されているということ。

人はすべて「心」によって決まります。
心がすべてである以上、自己を拠りところにするしかないのです。
「良い心」も「悪い心」も、それはあなた(自己)次第です。

合掌

曹洞宗正木山西光寺