毎年のことながら、7月に入ると新盆家の法事や組寺院の施食会法要の随喜などに追われ、いよいよ多忙な“夏”が始まります。
そしてピークの8月の棚経が終わり24日の地蔵盆が終ってやっとようやく自分(坊さん方)の“お盆休み”といったところでしょうか。
さて、浄土真宗以外宗派を問わず住職のいるお寺では大抵施食会(せじきえ)法要が修行されていますが、特に夏のお盆前後に集中しています。
当山も毎年8月5日で猛暑のなか大変です。
しかし、拙僧がこの寺に来て以来凡そ50年一度も雨に見舞われてないのだけはチョト自慢です。
菩提寺を持つ方なら誰でもその施食法要に出席されたことがあるでしょう。
本堂に施食棚が設けられ様々な山海の野菜や乾物が供えられ、三界萬霊に供養します。
三界萬霊といっても供養する相手は主に餓鬼であることから「施餓鬼会」ともいいますが、曹洞宗では、施すものと施されるものの間に尊卑尊賎があってはならないとして1988年の行持規範より「施食会」としています。
三界萬霊の三界とは、欲界、色界、無色界のことです。
欲界とは性欲、食欲、睡眠欲など本能的欲望の世界です。
色界とは欲界を離れた上にある世界で、物質と形あるものの世界です。
無色界とは色界の上にあり、欲望も物質的な面も超越した精神的な要素のみからなる高度な世界です。
そこは心の状態から四段階の「天」に分けられます。
その一番上の段階が「有頂天」であり、喜びや得意の絶頂にいて、我を忘れている状態を表す言葉としても有名です。
無色界の上、つまり三界を超越したところに仏様の世界が存在します。
三界は、仏界に至らない世界ですから、「解脱」しない限り永遠に六道の中で生まれ変わりを繰り返すのです。
これを即ち六道輪廻と言います。
三界はつまり六道輪廻の世界ですから、三界萬霊とはすなわち未だ成仏できていないもの達のことになります。この点の理解が重要です。
だから仏陀は六道輪廻を「解脱」して仏界に入ることを説くのです。
六道とは、言うまでもなく三悪趣(三悪道)の地獄、餓鬼、畜生と三善趣(三善道)の修羅、人間、天上のことです。
人間界も天上界も六道ですから即ち迷いの世界です。
有情非情の三界の萬霊、それは譬えればガンジス河の砂粒の数ほどもある限りない飢え苦しむものの類であり、それらを雲集鬼神招請陀羅尼の力で施食棚に集め、無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼の力で供養するのです。
では、施食会の因縁について考えてみましょう。
釈尊の弟子、阿難(アーナンダ)はある夜静処で坐禅していると、突如恐ろしい形相の鬼が現れました。
痩せて咽は針のごとく細く、頭髪は乱れ、爪は牙のごとく長く、口から火を吐く、それは焔口鬼という餓鬼でした。
その餓鬼は、阿難に向かって「お前は三日のうちに死ぬだろう」を告げました。
阿難は恐れおののき、釈尊にどうすればよいか尋ねました。
すると、釈尊は、「沢山の食べ物を用意し、三界の命あるものに平等に食事を与え供養することで餓鬼も救われお前の命も救われるだろう」と「施食の法」を示されたのです。(救抜焔口餓鬼陀羅尼経)
施食会には甘露門というお経を唱えますが、その中に施食の意味合いが述べられています。
「発心して、あまねく、十方、窮尽虚空、周遍法界、微塵刹中、所有国土の一切の餓鬼に施す、先亡久遠、山川地主、乃至曠野の諸鬼神等、請う来って此に集まれ」
われ(阿難)は今決心した。三界萬霊の一切の餓鬼に食を施しますから汝らここに集まりなさい。
「我今悲愍して、あまねく汝に食を施す、願わくは汝各各、我が此の食を受けて、転じ持って尽虚空界の諸仏及聖、一切の有情に供養して・・・」
我今あわれみを以って汝等にこの食を施す。それぞれがこの食を受け、その功徳を一切の諸仏と三界萬霊に回向しなさい。
「あまねく皆飽満せんことを」
三界萬霊のすべてのものが飢餓から解かれ満腹になることを願って。
「亦願わくは汝が身、この呪食に乗じて、苦を離れて解脱し、天に生じて、楽を受け、十方の浄土も、意に随って遊往し、菩提心を発し、菩提道を行じ、当来に作仏して・・・」
汝がこの食を受けて、苦から救われ、天に生まれ楽を受けられればどの浄土にも自由に行くことができる。菩提心を持ち修行すれば来世こそ仏になれるだろう。
「所生の功徳、あまねく以って法界の有情に廻施して、もろもろの有情と、平等共有ならん、もろもろの有情と共に、同じく此の福を以って、ことごとくもって真如法界、無上菩提、一切智智に回向して、願わくは速やかに成仏して・・・」
この功徳が三界萬霊のすべてのものに平等に行き渡ることを、この福を以って真如悟りの世界の諸仏諸菩薩に回向となって汝が速やかに成仏することを願って・・・」
「オン サンマヤ サトバン」三界萬霊の命が仏陀と平等になることを願って。
普段でも宗侶が食事の前にお経を唱えますが、読経中箸で5~6粒程のご飯を取って卓上にお供えします。
これを「生飯」(さば)といいますが、これも施食法に由来した所作です。
生飯之偈(さばのげ)
汝等鬼神衆 我今施汝供 此食偏十方 一切鬼神共
じてんきじんしゅう ごきんすじきゅう すじへんじほう いしきじんきゅう
ついでに申せば、食事の最後に折水之偈(せっすいのげ)という偈文を唱えます。
食事が終わると、鉢(食器)に白湯(さゆ)を注いでもらい、使った全ての食器をその白湯で洗い、洗い終わったその白湯の半分を飲みます。
そして、最後に残り半分の白湯を桶に空けますが、その所作を「折水」(せっすい)と言います。
その時に唱えるのがこの偈文です。
我此洗鉢水 如天甘露味 施与鬼神衆 悉令得飽満
がしせんぱすい にょてんかんろみ せよきじんしゅう しつりょうとくぼうまん オンマクラサイソワカ
どれも意味は説明するまでもなく語感から察知できると思います。
修行の食事はまさに施食の精神を以って頂くのです。
施食会の回向文に、「無尽法界一切の群類に回向す。法味に飽満し、正智開発し、広く衆生を度して、同じく種智を円にせんことを・・・」とあります。
この功徳を一切の群類に回向する。この上ない仏法の醍醐味、ご馳走の味わいが飽き足りるほど満ちあふれて、これを満喫し、それによって、それぞれが本来もっている正しい真理の智慧を開き発こさんことを願って・・・
「無量の煩悩、皆解脱を得、隠顕利益し、同じく種智を円にせんことを・・・」
貪・瞋・痴の三毒をはじめ、傲慢・疑い・邪見などの、一切の煩悩から解きほぐされ、解脱し、今生きているものも既に亡くなってしまったものにもそのご利益が及び、仏の智慧が全てのものに行き渡らんことを願って・・・
仏法という、この上ない、ご馳走を飽くまで満喫することによって、誰もがみな正しい智慧を開き起こし、量り知れない煩悩による心の穢れが、解きほぐされて、今は亡きものも、この世にあるものも、幸せに恵まれて、同じように仏の一切の智慧を円にそなえられて、成仏できますように・・・これがまさに施食会の精神です。
合掌