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法話

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法話--令和元年6月--

日本人の宗教観 その9 ― 天皇 その5―

洗心寮を出られたあと、長い坂の下でたくさんの人々が陛下を出迎えました。
陛下は遺族などと一人一人お話になり、進まれました。
その中に若い青年と思われる数十人が一団となって陛下をお待ちしていました。

シベリア抑留の時に徹底的に洗脳され、共産主義国家樹立のために共産党に入党した者達でした。
すごい形相で、筵(むしろ)旗を立てて待ち構えていたのです。
恐れていた事態が起こる気配でした。

周りの者が陛下をお守りしなければと駆けつける前に、陛下はその者達に近付かれ、なんと、陛下はその者たちに深々と頭を下げられ、声を掛けられたのです。

「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して深く苦しんで大変であっただろうと思うとき、私の胸は痛むだけではなく、このような戦争があったことに対し、深く苦しみを共にするものであります。」

「皆さんは、外国においていろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として、新しい方向に進むことを、希望しています。皆さんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います。」

非常に長いお言葉を述べられました。
陛下の表情は慈愛に溢れるものでした。
陛下は、彼らの企てをご存知ない。

すると、陛下の前に、一人の引き揚げ者がにじり寄りました。
「天皇陛下さま、ありがとうございました。今頂いたお言葉で、私の胸の中は晴れました。

引き揚げてきたときは、着の身着のままでした。
外地で、相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみれば、まるで丸裸。最低の生活に落ち込みました。

ああ、戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったと思ったことも何度もありました。そして、天皇陛下さまを、恨みました。
しかし、苦しんでいるのは、私だけではなかったのです。

天皇陛下さまも、苦しんでいらっしゃることが、今わかりました。
今日から、決して、世の中を呪いません。人を恨みません。
天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります。」と言いました。

その時、筵旗を持ってすごい形相の男が不意に地面に手をつき泣き伏しました。
「こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。俺が間違っておった。俺が誤っておった。」と号泣したのです。
その男の懐には短剣が忍ばせていたのです。
泣きじゃくる男に、他の者たちも号泣しました。

じっと、皆を見詰めて動こうとされない陛下。
陛下の眼差しは深い慈愛に溢れ、お優しい目で見詰められていました。
三谷侍従長が、ようやく陛下のおそばに来て促され、陛下は歩みを進められたのです。

陛下が涙を流されたとき、人びとは知りました。
陛下も苦しまれ、悲しまれ、お一人ですべてを抱え込んでいらしたことを。
このように、陛下はあえて危険を顧みず全国を巡幸され続けられたのです。

そのお姿に、国民は「一丸となって、共に頑張ろう」と思うのでした。
奇跡といわれた戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれたと言ってもよいでしょう。

話は変わって、昭和22年12月7日、昭和天皇は被爆地、広島市に入られました。
宮島口から市内に向かう途中、五日市で広島戦災児育成所に立ち寄られました。
ここには家族を原爆で失った84人の孤児が天皇をお迎えしました。

その先頭に墨染の衣をまとった5人の少年僧がいました。
最年少は小学生の朝倉義脩(現真宗大谷派大谷祖廟事務所長)でした。

朝倉は、20年4月、広島市から8キロ離れた寺に学童疎開をしていました。
「8月6日朝、体操が終わってしばらくすると、広島市の方が光って、間もなくドーンというものすごい音がしました。夕方には焼けただれた避難民がやってきた」

終戦。子ども達は迎えに来た家族や親せきに連れられ帰っていきましたが、朝倉少年を迎えに来る者は誰もいませんでした。父は前年に亡くなり、母と妹の住む自宅は爆心地に近く、絶望でした。

育成所はこうした孤児を見かねた真宗本願寺派の僧侶、山下義信(故人、元参議院議員)が私費を投じて開設された施設でした。

子どもたちは夜になると泣いた。「お父さんに会いたい。お母さんに会いたい。」
中には「どうすれば会えるの」と涙をためて山下に詰め寄る年長の子どももいました。
山下は、「お経をあげれば会える。坊さんになって修行しなさい。」と諭しました。

朝倉少年らは21年11月に得度して僧になりました。
新聞は、「原爆少年僧」と呼びました。
この話を知った天皇が「広島市に入る前にぜひ声をかけたい」と立ち寄られたのです。

陛下は、整列する子どもたちの前に進まれました。
山下が原爆で頭髪が抜けた子供を抱えるようにして陛下にお見せしました。
陛下はその子の頭をなで、目頭を押さえられました。

さらに、少年僧らを「しっかり勉強して頑張ってください」と激励されました。
側近や多くの報道関係者がいましたが、水を打ったように静まり返りました。

「陛下に励まされたわけですから、正しい道を歩まなくては、と思ってやってきました。」と朝倉は振り返ります。
朝倉ら得度した子供たちのみならす、施設の子ども達は大きな勇気を頂きました。

天皇は広島市に入り、約七万人が集まった護国神社跡地の歓迎場にお着きになりました。
平和の鐘が鳴り響き、君が代の合掌の中、お立ち台に上がられました。
市民からは万歳の声があがりました。正面には原爆ドームが見えます。

陛下は終戦以来、初めてマイクで直接市民に語りかけられました。
「広島は特別な災害を受けて誠に気の毒に思う。われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、世界平和に貢献しなければならない」

この様子を見て恐怖心を抱いた米国人がいました。
“目付役”として随行していたケントというGHQの民政局員でした。
侍従としてお供していた徳川義寛は「ケントという変な男がついてきてあれこれ探っていた」と証言しています。

広島の会場をそれまで「奉迎場」から「歓迎場」と名称を改めさせたのもケントらでした。
「原爆が投下された広島市民は天皇を恨んでいなければならないとケントは思っていました。

しかし、市民は熱狂して天皇を迎え、涙を流して万歳を叫ぶ。天皇制廃止論者のケントは怖くなりました。
このまま巡幸を続けると、天皇制はますます確固不動になる。
巡幸をやめさせねばならないとケントは考えました。

ケントら民政局は巡幸の中止を政府に働きかけることにしました。
問題にしたのが、日の丸事件です。
GHQは占領以来、日の丸の掲揚を禁止していましたが、巡幸の先々で日の丸が振られていたのです。

民政局はその都度、宮内庁に抗議しましたが、宮内庁は、「国民が日の丸を振ることを禁止する権限は宮内庁にはない」とかわしていましたが、GHQは納得せず、宮内庁の責任だと強行姿勢に出ました。

後の東宮大夫、当時、侍従の鈴木菊男も「民政局はご巡幸で天皇の権威が復活するのを恐れていた」と証言しています。

22年12月、中国地方の巡幸が終わると、GHQは政府に宮内庁の機構改革と首脳の更迭を指示。
当時芦田内閣は何の抵抗もなく従い、この結果、宮内庁長官、侍従長、宮内府次長の3人が辞職。そして巡幸は中止になったのです。

その後、九州、四国を中心に全国からGHQ、政府、宮内府に巡幸復活の嘆願書が寄せられ、陛下も直接マッカーサーに復活を願われたそうです。
結果、24年5月に巡幸は復活し29年まで続きました。

合掌

曹洞宗正木山西光寺