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法話

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法話--平成24年8月--

十三仏(勢至菩薩)--智慧とは--

今回は13仏の九番目の勢至菩薩のお話です。
勢至菩薩は、サンスクリット語では「マハースターマプラープタ」と言い、「偉大な威力を獲得した者」を意味するそうです。
八大菩薩のお一人で、衆生の無知を救う仏の智慧を表します。

一周忌の導師で、真言は、オン サン ザンサク ソワカ です。
この真言を唱えれば、煩悩が去り、悟るための智慧が得られるといいます。

勢至菩薩は観音菩薩と並んで阿弥陀三尊を形成します。
その右脇侍として有名ですが、観音の慈悲に対して、勢至菩薩は仏の智慧の光を象徴しており、あまねく一切を照らし、往生する衆生が地獄・餓鬼界へ落ちないようにまもり極楽浄土に導いてくれます。

観無量寿経の中には、「知恵を持って遍く一切を照らし、三途を離れしめて、無上の力を得せしむ故、『大勢至』と名ずく」とあり、迷いの世界の苦しみから智慧を以て救い、亡者を仏道に引き入れ、正しい行いをさせる菩薩とされます。

今回は勢至菩薩が司る「智慧」をテーマにしました。
これまでも「智慧」については幾度も触れてきましたが、改めてその「智慧」について考えてみたいと思います。

まず、「知恵」と「智慧」との違いから考えてみましょう。
私たちの日常生活では、知恵という言葉は「知識があって賢いこと」だと理解されているようです。

では、知識とは何でしょう。
これも幾度となく言ってきたことですが、人が便宜上作った人間社会共通の約束事なのです。
あらゆるものに尺度や理論をつけ差別化をしたものがすなわち「知識」なのです。

確かに知識は人が社会生活を送るうえに絶対に欠くことのできない分別としての大事なものです。
知識を生かすことで人は合理的で豊かな生活を手にすることができました。
あらゆる分野においてどんな知識も有るにこしたことはありません。
しかし、知識を積み知恵をつけた人が果たして"賢人"でしょうか。

それは、「知恵」には「浅知恵」とか「悪知恵」があるように、中には知識を悪用する人もいるからです。
オレオレ詐欺の例にもあるように、現代の犯罪の多くは知識をフルに活用した知能犯が主流を占めています。

つまり、「賢人」の定義が「立派な人」だとすれば、「知恵ある人」が即ち「賢人」とは限らないということです。
これは、人の作った知識は人の独断や偏見に呑み込まれてしまうということであり、どんな豊かな知恵であっても必ずしも賢人の担保ではないということです。

仏教で言うところのほんとうの賢人とは、知恵ではなくその先にある「さとりの智慧」を会得した人のことをいいます。
その人こそ「真理に目覚めた人」即ち仏陀なのです。

釈尊は三十五歳のとき、菩提樹の下でさとりを開かれ仏陀となりました。
この後、釈尊によって説かれた教えのすべては、このさとりの智慧の体験を世の人々に伝えようとされたものに外なりません。

「華厳経」には、このときの釈尊の目覚めの体験が次のように記されています。
「なんという不思議なことであろうか。欠けることのない仏の智慧は、すべての人の中にすでに届けられているのに、どうしてそれに気づかなかったのだろう。
私はこれから、あらゆる生きとし生けるものに正しい道を教え、永く誤ったものの見方から解放されて、仏の智慧がその身の内にあることに目覚めさせるようにしよう。」

智慧が知恵と違うところは、智慧は人の良識や分別を超えた道理だということです。
それは、宇宙絶対の真理なのです。
それは人の独断も偏見も通用しない絶対の法則です。
釈尊のこの"発見"を「おさとり」と言い、仏陀の法則として「仏法」と言います。
すなわち智慧とは仏法のことに他なりません。

世間ではよく、宗教とは教祖や何かの象徴を信じることだと理解されることが多いようです。
ユダヤ教やキリスト教、イスラム教のような天地創造の主としての神や、日本伝統の神道の八百万(よおろず)の神を信じることなどが挙げられるでしょう。

では、仏教も同じような意味で象徴としての釈尊を崇拝する宗教なのでしょうか。
確かにまず仏陀(目覚めた人)として釈尊の人格を信頼することから始まりますが、特に大事なことは、その仏陀が説かれた教え、すなわち「法」です。

釈尊は入滅に際して、「自らを灯明とし、自らをたよりとして他をたよりとせず、法を灯明とし、法をたよりとして他のものをたよりとせず生きよ」(涅槃経)と語られました。
いわゆる「自灯明、法灯明」の教えです。

この教示からも解るように、仏教が目指しているのは、単なる個人崇拝や人間を超えた何かをやみくもに信じるということではなく、真理に目覚めた人の教えを学び、その目覚めの内容に私たちも目覚めていこうということであり、その目覚めの内容を指して「智慧」というのです。

「もろもろの仏たちが世に出られるわけは、すべてのものを仏の智慧に入らしめるためである」(妙法蓮華経)

多くの人の中には、仏教を学んでいけば知らないうちに「仏教」という一つの思想に偏るのではないかと感じている人もいるかも知れませんが、それは大きな心得違いです。「智慧」は人間の思考の範疇にある「思想」とはちがいます。

釈尊はさとりの体験から人々がすでに持っている偏見と独断の見識を改め、その束縛から解放されて、ものごとの真実のすがたをありのままに見ることを諭されているのです。
その"ありのままの真実"を見ること、それが「智慧」なのです。

「ありのままの真実を見ること」と言われても多くの人は「いったいどういうことなのか」という思いでしょう。
極々分かり易い例で言いましょう。

「あの人はいい人だ」というときは、たいてい「自分にとって都合のいい人」であり、「あの人はダメな人だ」というときは、たいてい「自分に利益をもたらさない人」という場合が多いのではないでしょうか。

同じように、「好き」と「きらい」、「可愛い」と「憎らしい」、「きれい」と「きたない」など、ものごとや人を差別したり、仕分けたりするのも、結局は自分というモノサシで計っているのです。

仏教はこの自分のモノサシこそあらゆる苦悩を生み出す元であるとされるのです。
仏の智慧は、そのような偏見分別のモノサシを超えて、ものの価値を絶対平等に見る心の眼を開くことにあるのです。
これを「無分別智」といいます。

釈尊は教示されています。
「ものに、意味のないものと意味のあるものとの二つがあるのではなく、善いものと悪いものとの二つがあるのでもない。二つに分けるのは人のはからいである。
はからいを離れた智慧をもって照らせば、すべてはみな尊い意味をもつものになる」

「心の眼を開き、智慧を進める」ことによって、この世に存在するすべてのものは、互いに因となり縁となって大きなつながりの中に存在しているのであって、そこに価値の上下はないのだ、という世界があらわれてくるのです。

どうでしょうか。そもそも「智慧」とは即ち「仏教そのもの」だということがお分かりいただけたでしょうか。
仏教とは釈尊が悟りを開きその悟りに基づいた教えであり、その悟りそのものが即ち「智慧」そのものだったのです。

阿弥陀さまも観音さまも、地蔵菩薩も虚空蔵菩薩も、そして今回の勢至菩薩もみな釈尊によって編み出された架空の仏さまですが、なぜ釈尊はかくもあまたの如来や菩薩を"創造"されたのでしょうか。
それは只ひとえに悟りの「智慧」を一切衆生に知らしめんがために他なりません。

人に仏の智慧さえあれば、愚かな行為は一切無くなる筈です。
もちろん、いじめも虐待も、すべての悪行はなくなり、そこに現れるのはまさに浄土の世界なのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺