▲上へ戻る

法話

  1. ホーム
  2. 住職ご挨拶

法話--令和2年7月--

太平洋戦争の真実 その4 ―帝国海軍中佐工藤俊作 ―

2008年12月、元英国海軍中佐サムエル・フォール卿が来日しました。
1996年に自伝「My Lucky Life」を出版。その本の巻頭には、「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」とあります。

時は太平洋戦争の最中、昭和17年にジャワ島の制海権争奪に敗れた米英豪連合軍の残存艦艇は、日本艦隊の隙をついて同海域からの脱出をはかりました。
しかし、2隻の英国艦艇が日本艦隊に撃沈され、乗員422名が漂流の身となりました。

南方の暑い日差しの中で、彼らはもはや生存と忍耐の限界に達していました。
そのとき、たまたま単艦でこの海域を哨戒していた日本の駆逐艦「雷(いかずち)」が、漂流している英国乗組員を発見しました。

平時の感覚としてなら、彼らを救助することは人道上当然の責務です。
しかし、戦時下では状況が異なりあらゆる価値観は逆転します。
ですから、海上で敵兵を見付ければ、それが漂流中であれなんであれ、全員殺すことが戦時の常識です。

そうされても仕方がないというために、軍人は軍服を着用します。
それが戦時国際法のルールです。
そもそも戦争とは、一人でも多くの敵兵を殺すことです。
殺すか殺されるかが戦争ですから非情でなければ生き残れないのです。

しかし、なんと工藤俊作少佐(当時)は艦長として、「雷」を停止させ、敵英国兵の救助を命じたのです。
「敵兵を救助せよ」の命令により、「雷」は「救援活動中」を示す国際信号旗を掲げ、英国兵の救助に当たったのです。

救助のためには、鑑を停止させなければなりませんが、敵の魚雷の的になる危険があるのです。
工藤艦長は「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」との命令を発し、船内総力を挙げて救助に当たるよう指示したのです。

はしご、ロープ、竹竿等々。さらには、魚雷搭載用のクレーンまで、使用可能なすべての装備を投入し救助にあたったのです。
しかし、英国兵の体力は限界に達していて、一部の将兵は、縄はしごを自力で登ることができません。

竹竿を下し、これにしがみつかせ、艦載ボートで救助しようとするのですが、間に合わず力尽きて海に沈んで行く者もありました。
工藤艦長は、下士官を海に飛び込ませ、気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛して艦上に引き上げさせたのです。

「漂流者を全員救助せよ。ひとりも見逃すな」。工藤艦長のさらなる命令により、「雷」は進行しては止まり、すべての英国兵を救助したのです。
その数実に「422名」。まさに「雷」の乗組員に倍する数でした。

「雷」艦上は英将兵で一杯となりましたが、日本水兵は重油と汚物にまみれた英将兵の体を貴重なアルコールや真水で洗い、着替えも用意。艦上に天幕を張り、日よけにも気を配ったので、1番砲は使えなくなりました。

戦闘海域における救助活動というのは、下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも自沈します。そういうケースは多々あります。
だからこそ相当に温情あふれる艦長でさえ、ごく僅かの間だけ鑑を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識です。

ところが工藤艦長は、鑑を長時間停泊させただけでなく、全乗組員を動員して、洋上の遭難兵を救助したのです。
さらに工藤艦長は、潮流で四散した敵兵を探して終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても必ず鑑を止め救助したのです。

これらの行動は、戦場の常識ではありえないことです。
こうして422名の英兵が救助されました。

救助活動が一段落したとき、工藤艦長は、前甲板に英海軍士官全員を集めて、端正な敬礼をした後、英語で次のように訓示しました。
「貴官達は勇敢に戦われた。貴官らは本日、日本帝国海軍の名誉あるゲストである」
さらに士官室の使用まで許可したのです。

英兵一行は翌3日午前6時30分、オランダ病院船「オプテンノート」に移乗。
その際舷門で直立して見送る工藤艦長にいました。
英兵は全員で挙手の敬礼を行い、工藤艦長は答礼しながら温かな視線で見送ったのです。

サムエル・ファオール卿は次のように回顧しています。

「私は当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。

『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるかとさえ思っていました。
ところが、『雷』の砲は一切自分たちに向けられず、救命艇が降ろされ、救助活動に入ったのです。駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。

水兵たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、白い防護服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員が笑みをうかべ、我々を温かくみつめてくれていたのです。
我々はどうにか甲板に上がることができました。

日本の水兵たちは我々を取り囲み、油や汚物にまみれていた我々の体を嫌がりもせず木綿やアルコールできれいに拭き取ってくれました。
しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。

友情あふれる歓迎でした。
私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと運動靴が支給されました。
これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。

私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢ではないかと、自分の手を何度もつねったのです。
間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられました。
すると、キャプテン・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をし、流暢な英語でスピーチされました。

You had fought bravely.
Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.
I respect the English Navy, but your government is foolish make war on Japan.

『雷』は、その後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遥か遠方に一人の生存者がいても、必ず鑑を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました。

『雷』はもはや病院船のような状況となりました。
『雷』の上甲板は我ら英兵422人をケアーするにはスペースが足りません。
すると工藤艦長は我ら敵将校たちに士官室の使用を許可したのです。

後日、救助された我々は、オランダの病院船「オプテンノート」に引き渡されました。
移乗する際、我々は『雷』の旭日の軍艦旗に敬礼し、ウイングに立つ工藤艦長に敬礼して『雷』をあとにしました。

工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をしてくれました。
副長以下重傷者は担架で移乗しましたが、とくに工藤艦長は、負傷して横たわる副長を労い、艦内で治療する間、当番兵をつけて身の回りの世話をさせました。
副長も艦内で、涙をこぼしながら工藤艦長の手を握り、感謝の意を表しました」。

その「雷」は、1944年(昭和19年)4月13日、船団護衛中にグアム島の西で米潜水艦「ハーダー」の雷撃を受け撃沈しました。乗員は全員戦死です。

工藤艦長は、1942年に「雷」艦長の任を解かれたのち、海軍施設本部部員を命じられ、1944年11月から体調を崩し、翌年3月15日に待命となって終戦を迎えています。〔続〕

合掌

曹洞宗正木山西光寺