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法話

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法話--平成19年11月--

因縁(その8)-- 三時の業報 --

「善悪の報(ほう)に三時(さんじ)あり。
一つには順現報受(じゅんげんほうじゅ)、
二つには順次生受(じゅんじしょうじゅ)、
三つには順後次受(じゅんごじゅじ)、これを三時という。

仏祖の道を修習するには、その最初よりこの三時の業報の理をならいあきらむるなり。
しかあらざれば多く錯(あやま)りて邪見(じゃけん)に堕(お)つるなり。
ただ邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。」

「善悪の報(ほう)に三時(さんじ)あり」
善業にせよ悪業にせよ、その業に対する果報には時間的に3通りあるというのです。
その第一が「順現報受」(じゅんげんほうじゅ)です。
その第二が「順次生受(じゅんじしょうじゅ)」です。
その第三が「順後次受」(じゅんごじじゅ)です。

「仏祖の道を修習する」というのは、仏道を修行するということです。
「その最初より」とは、仏道修行の出発点こそ大切だということです。
「ならいあきらむる」とは、十分に修行し究めるということです。

「しかあらざれば、多く錯(あやま)りて邪見に堕(お)つるなり」
この三時の業報の道理を十分究めないととんでもない間違った方向、誤った認識の我見や我執にとらわれ、「邪見」に堕ってしまうというのです。

「ただ邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。」
それも、ただ単に邪見に堕ちるだけではなく、その邪見が元となって、やがては三悪道(地獄・餓鬼・畜生)といわれるような、抜き差しならぬ苦しみの世界に堕ち、いつ果てるとも知れぬ長い「苦の果報」を受けることにもなるというのです。

以上がこの第五節のあらましですが、三時の業報の道理をしっかり究めつくすことこそ仏道であるということ。
そして、もしこの道理を無視したり否定したりすると、とんでもない誤った認識、邪見を持つばかりではなく、三悪道に堕ちて長い苦しみを受けることになると諭されています。

前節において、「おおよそ因果の道理歴然として私なし。
造悪の者は堕ち、修善の者は陞る、豪釐もたがわざるなり。」と説いていました。
善因善果、悪因悪果の理法は、断じていささかの狂いもなく果報として現れることを説いたものですが、しかし、世間の現実を見ると、果たしてそうかと思われるようなことが沢山あります。

それは、どうみても善人なのに、その身の上に痛ましいことや不幸なことが立て続けに起きたり、それとは逆に、どうみても悪人と思われる人が順調に富み栄えている例などいくらでもあります。

善因善果、悪因悪果の道理とはいえ、おおいに疑問の念が起こるところです。
その理不尽、不条理の思いに応えているのが正にこの「三時の業報」の理法なのです。
この理法に照らして見ると、善因善果、悪因悪果の道理というものが、いささかの例外も目こぼれもあり得ないのだということがわかります。
今回のテーマはここにあります。

善業であれ悪業であれ、私たちの行為による業には、時間的に三通りの果報があるというのです。
それがこの、順現報受・順次生受・順後次受という「三時の業報」なのです。
「順」は「したがう」という意味です。
善業は善業に"したがって"、悪業は悪業に"したがって"、さらに悪業も善業もそれぞれ軽い、重いがあって、その軽重に"したがって"果報があるというので、"順"という字が使われているのです。

まず、第一の「順現報受」をみてみましょう。
わたしたちが善悪の行為をした場合、その報を現世、つまり今の世で受けることをいいます。

「いはく、人ありて、あるひは善にもあれ、あるひは悪にもあれ、この生(しょう)に(業を)つくりて、すなはちこの生にその報をうくるを、順現報受業といふ」(正法眼蔵・三時業)

第二の「順次生受」とは、今生、つまり今の世で行った行為の報いを次の世、つまり来世で受けることをいいます。

「いはく、人ありて、この生に五無間業(むけんごう)をつくれる、かならず順次生に地獄におつるなり。順次生とは、このつぎの生なり。また第二生ともこれをいふなり」(正法眼蔵・三時業)

第三の「順後次受」とは、今生で行った行為が、次の次の生、またはその先の世でその報いを受けることをいいます。
「後次受」の「後」とは、限りない次の世ということであり、私たちの行為は業のエネルギーとなって、その果報を受けるまで永久に続くのです。

「いはく、人ありて、この生にあるひは善にもあれ、あるひは悪にもあれ、造作しをはれりといへども、あるひは第三生、あるひは第四生、乃至、百千生のあひだにも、善悪の業を感ずるを順後次受業となづく」(正法眼蔵・三時業)

私たちの行為によって生まれる業のエネルギーは、たとえ三つの時節に分かれてはいますが、必ずその結果を招かずにはおかないという、これを三時の業報の道理というのです。

道元禅師はさらに、「深く因果を信ずべきこと、僧侶の中でも因果の道理に暗い人がいる」とか、「因果の法則を知らない人は、仏法を説いてはいけない」とか、「因なし果なしというは外道なり」とか、「仏祖の洪恩を報ずべくは、すみやかに諸因諸果をあきらむべし」(正法眼蔵・深信因果)と示されています。

「因果の法則」を抜きにして、仏法を説くことはできません。
その因果の法則を時間の関係から説かれたのがこの「三時の業報」です。
要するに、善業にせよ悪業にせよ一旦造られた「業」が、その果報を招かずに終わるということは、絶対にありえないのです。

あなたの行った行為は善であれ悪であれ、時間的な差があっても必ずその結果は現れるのです。
しかし、世の人々の中には、この因果の理法、三時の業報というものを信じることもなく短絡的に生きている人がなんと多いことでしょう。

毎日のニュースはその有様を示しています。
詐欺、ストーカー、殺人、偽装、賄賂汚職等々。
あんな善い人が、こんな事件を起こすなんて信じられない、といったことをよく聞きます。
どんな人でも油断をすると悪道に堕ちる可能性を持っているのです。
だからこそこの「理法」を身に付けて欲しいのです。

さて、ここでさらに大事なことを申し上げましょう。
それは、この因果の理法、三時の業報の理法を、単に悪道に堕ちないために信じるということでは不十分だということです。
どうゆうことかと言うと、それは、悪い事は悪い結果となるから「してはならない」とか、善いことは善い結果を生むから「しなさい」というのは単なる利得的発想だからです。

ちょっと難しいかもしれませんが、「行為」というものに、意図的なものがあったらたちまち利欲的な個人的なものになってしまうからです。
義務感覚での段階は低次元だということです。

悪い事は、「悪いからしない」ではなく、「悪いことは出来ない」ということでなければなりません。
善い事は、「善いことだからする」のではなく、「善いことしか出来ない」ということでなければ本物ではありません。

因果の理法、三時の業報の理法を真に究めるということはその境涯まで求められるのです。
悪いことすると罰が当たる、善いことをすると善い見返りがある、というのは単なる賞罰論であり、道徳論の域を出ません。

仏教は道徳ではありません。宗教です。
宗教は理屈を超えた崇高な精神の世界です。
ただ「悪いことは出来ない」、「善いことしか出来ない」菩提心の世界です。

だからこそ祈るのです。懺悔するのです。
それにより報恩感謝の生活、仏作仏行の生活が送れるのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺