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法話

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法話--令和元年5月--

日本人の宗教観 その8 ― 天皇 その4―

5月1日、新天皇が第126代の皇位を継承されました。
そして同時に元号は新たに「令和」となりました。
まさに時代が、そして歴史が変わった瞬間です。
日本中が新たな時代を迎え新たな気持ちにさせられました。

日本人の宗教観を鑑みたとき、天皇の存在は格別であると言いましたが、それは、日本人にとって天皇はまさに「宗教的存在」になっているからです。
そもそも宗教とは、人の心や意識をプラス思考に変え、生きるためのモティベーションを高めるものです。

天皇陛下は宮中三殿において、常に国の安泰と国民の幸福を祈っておられるのです。
国事行為であれ、私的行事であれ、太古の昔から天皇は常に国民に寄り添い想いを致してこられたのです。
だからこそ国民は天皇に感謝し崇敬するのです。

神武天皇以来2600年以上もの長きに亘り、天皇と国民はまさに相思相愛の関係にありました。
戦後は現人神としてではなく日本国の象徴としての位置付けになりましたが、国民の想いとその威厳はまったく衰えていません。

日本には精神的主柱である天皇がおり、日本人に生まれたことで天皇が庇護する日本国の一員であるという誇りと自負が芽生えます。
そこに自ずと天皇崇拝の想いが生まれるのは自然なことであり、それはまさに“信仰心”に他なりません。
何となればこれこそ「宗教」ではないでしょうか。

以上のことを踏まえて、前回に続いて昭和天皇が戦後とられた行動とエピソードを紹介したいと思います。

戦後間もない、まだ新憲法も公布されてもいない、「象徴天皇」という言葉もまだないなか、日本人が普通に生活できるようにしなくてはならないという想いから天皇が選択されたのが、全国行幸だったのです。

天皇巡幸は昭和21年2月から29年にかけて全国を巡幸され、全行程は3万3千キロ。
東京、ロサンゼルス間を2往復する勘定になります。
敗戦によるショック、虚脱状態にあった国民を慰め、励まされるための旅でした。

未曾有の戦災を被った日本を不法な闇市を通さなくても十分に食料が分配できるようにするためには何が必要か。
陛下が選択されたのは全国民の真心を喚起するということだったのです。
国民一人一人が、炭鉱で、農村で、役場で、学校で、会社で、あるいは工場で、真心をもって生産に勤しむ。

ひとりひとりの国民が復興のために、未来の建設のために立ち上がること。
そのために陛下は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がるための勇気を与えようと全国を巡られたのです。

陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないなか、無防備のまま巡られたのです。
普通の国であれば、平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、厳重な守りがなされるものです。

それでも暗殺される王様や大統領だっています。
それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇陛下が日本の北から南まで、焼き払われた廃墟を巡り、国民を慰める・・・なんという命知らずの大胆なやりかたであろうか。いつどこで殺されるかもしれない・・・

「ヒロヒトのおかげで、父親や夫が戦争で殺されたという恨みを考えれば、旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。ヒロヒトが40才を過ぎた猫背の小男ということ、神様じゃなくて人間だということを日本人に知らしめてやる必要がある」と、占領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされていました。

しかし、その結果は高官たちの“期待”を裏切るものでした。
驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って「天皇陛下万歳」と叫んで陛下を慰めている。
なんと美しい国の元首と国民の親しみ、心と心の結び、これは日本以外どこにも見られないことでした。

イギリスの新聞は、この驚きを次のように率直に述べています。
「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。」

ローマ帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ滅びています。
神の如く慕われていたヒトラーも、イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいます。

それが、日本に限ってまったく違った現象が起こったのです。
外国人が驚愕したのも頷けますね。このような国は他にはありません。
戦後日本が焼野原から急成長を果たしていったのも天皇陛下と日本国民の心の結びつきが非常に強かったからこそだといえるでしょう。

しかし、国民のマジョリティーはそうだとしても、中には当然マイノリティーも存在します。
実際、共産主義に感化された一部の人々の中には、そうした陛下を亡き者にしようとか、あるいは陛下を吊し上げようと、各地で待ち受けていた輩もいたのです。

そんな中で、実際の陛下の行幸で何があったのかを佐賀のケースで見てみましょう。
佐賀県に因通寺というお寺があります。
この寺には、戦争罹災児救護教養の、洗心寮が設置されていました。

洗心寮には、44名の引き揚げ孤児と、戦災孤児がいました。
この寺の住職、調寛雅(しらべかんが)氏と昭和天皇はあるご縁がありました。
そのご縁もあって、九州行幸には「行くなら、調の寺に行きたい」との昭和天皇のご意向から、因通寺のご訪問が決定しました。

この地域は、共産主義者がたくさんいる地域で、特に敗戦後ですので暴動が起きる可能性がかなりありました。
因通寺のある町では、陛下の行幸を歓迎する人と反対する人で対立が起きました。
歓迎するのにも命がけの雰囲気です。反対派から何をされるか分りません。

5月24日、いよいよ因通寺に昭和天皇の御料車が向かわれます。
いろいろな想いの群衆から、「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」の声が自然と上がりました。それは、地響きのようでした。

陛下は、群衆に帽子を振って応えられました。
そして、陛下は門前から洗心寮に入られました。
子ども達は、それぞれの部屋でお待ちしていました。
陛下はそれぞれの部屋で丁寧に足を止められました。

そして一番最後の部屋の「禅定の間」に進まれました。
陛下は二つの位牌を持つ一人の女の子へお顔を近づけられ、「お父さん、お母さん?」とお尋ねになりました。

女の子が「はい、父はソ満国境で名誉の戦死をしました。母は、引き揚げの途中で、病気で亡くなりました」と返事をしました。

「お淋しい?」
「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子どもです。仏の子どもは亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土に参ったら、きっともう一度会うことが出来るのです。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。

そして、そっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。 するとお父さんも、お母さんも、私のそばにやってきて、私をそっと抱いてくれるのです。私は淋しいことはありません。私は仏の子どもです。」

陛下と女の子は、じっと見つめ合っていました。
さらに陛下は右の手に持っていた帽子を左に持ち替えられ、右手を女の子の頭において、撫でられたのです。

陛下は、「仏の子どもはお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申され大粒の涙をハラハラと流されました。

すると、女の子は「お父さん」と呼ぶのです。
多くの人達は、言葉なく佇みました。
新聞記者までが、言葉を無くし一緒に涙を流したのです。

孤児院から出られるとき、子ども達が陛下の袖を持ち、「またきてね、お父さん」と言いました。
陛下は、流れる涙を隠そうともせず「うん、うん」と頷かれました。

そして後に、陛下から因通寺に一首の歌が届けられました。
「みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ」

調住職はこのお言葉をみなに響き聞かせようと、この御製を寺の梵鐘に鋳込ませました。
今でも因通寺に行くとこの梵鐘の響きがあたり一帯に響き渡るそうです。

洗心寮を出られたあと陛下は待ち構えていた共産主義に感化された青年達と対峙しますがそれは来月に回しましょう。

合掌

曹洞宗正木山西光寺