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法話

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法話--平成20年11月--

こころ(5)-- 心眼 --

愚童師作 師は自作の仏像を多く檀家に配った言うまでもなく仏教とは「心眼」つまり真実を見極める心の教えです。
今回はその「心眼」を持って命を賭して布教と民衆の幸福を追求した一人の若き僧侶の話です。
その方とは、明治四十四年、36歳にして冤罪により刑死した曹洞宗の僧侶こと、箱根・林泉寺二十世・内山愚童(うちやまぐどう)住職です。

人は「心眼」を持たないと真実を見失います。
真実の見えないところに過ちや不幸が生まれるのです。
それは個人に限らずどんな団体であれ国家であれ有り得る事なのです。
当時の明治政府もその例外ではありませんでした。
世界の列強に後れをとるまいと軍事力の強化を図り、ひたすら軍国主義に突き進んでいたのです。

軍国主義とは戦争を念頭に国家威力の発現に努めることです。
それは国家による侵略の欲望そのものです。
そこには道義も正義も平和もありません。
明治政府は、思想・言論・出版の自由を厳しく制限し、民衆の声や運動を封じ込め、特に反政府思想や活動に対して厳しい監視や弾圧を行いました。

そんな時代、内山愚童師は二十二歳で出家得度し、その後の修行を経て二十九歳で箱根大平台の林泉寺に入山したのです。
愚童師が僧侶となった動機は明確でした。
立身出世のための便宜的手段でもなければ大寺院の住職を得るためでもなかったのです。
「人類幸福主義のため、苦痛を救済するの必要」というのが発心の動機でした。

愚童師は入山当初から地域の児童を対象に「寺子屋学級」を立ち上げ、さらに「青年組合」を組織し地域の活動に取り組みました。
どれも貧困による不就学や青年たちの修養を目的としたものです。

箱根山は"天下の嶮"の急斜面、火山灰土の土地は痩せていて水田や畑作にはとても不利な土地柄でした。
そんな大平台の人々の生活はとても厳しいものでした。
当地に限らず国民の多くが貧困に疲弊していた時代です。
愚童師はそんな民衆と共に苦しみ、その根源を洞察して、抑圧者やその体制に立ち向かうのが宗教者の使命であると考えたのです。

国民を顧みることのない理不尽な国家に対する愚童師の想いは社会主義思想へと傾倒して行きました。
愚童師の社会主義思想は、終始一貫、仏教者としての自覚をベースに民衆への想いから起こったものですが、秘密出版『無政府共産』の中で天皇制とその神格化の否定、非戦および小作人解放を訴えたのです。

「秘密出版」とは思想・言論・出版の自由が無い中で政府や警察の弾圧を回避するために印刷・出版・配布のすべてを秘密裏に行うことです。
そんな愚童師に対して明治政府と宗門は、「大逆徒」というレッテルを貼り付け、無政府共産主義者・革命僧というイメージを植え付け、果ては天皇と皇太子を暗殺して国家転覆を計画したと決めつけたのです。

宿代としてたまたま預かっていたダイナマイト(当時箱根では鉄道工事に多くのダイナマイトが使われていた)を口実に、出版法・爆発物取締罰則違反で逮捕され、そしてその後「大逆罪」という罪名で追起訴され国家反逆者として処刑されたのです。

愚童師の社会主義思想は、暴力革命を志向するものではなく、穏健で啓発主義的な傾向が基本でした。
獄中で書かれた『平凡の自覚』と『遺稿』の中では、自由と幸福を実現するために、民衆・労働者自身が「理性」に従って物事を観察し、思考して行動することの重要性を、さまざまな例をあげながら繰り返し主張しています。

「個人の自覚」の中では、独立自活と相互扶助、人類の終局的目標として、自由・平等・博愛の実現を訴えています。
「女性の自覚」の中では、女性の自立を、「家庭の自覚」の中では、封建的な家父長権威を否定し、「村民の自覚」や「市町村の自覚」の中では、今日的な福祉行政問題などに通じる諸提言をしています。

さらに生存権・平等権・自由権が万民当然の権利であることを訴え、国民はいかなる困難があっても個々の「理性」に従って、能力の及ぶ限り、理想の実現をめざして行動すべきであると訴えています。
同時代の社会主義の同志たちが愚童師に一目も二目も置いていたのも、愚童師の宗教信念に裏付けられた独自性にあったといわれています。

愚童師は正真正銘の仏教者でした。
「その土地で死ぬつもりでなければその土地の人を救うことは出来ぬと思います。」 「折角因縁あって住職した今の地が、三百年来、曹洞宗の信仰の下にあり乍ら、高祖道元の性格は勿論、その名も知らぬという気の毒な人ばかりであるから、之を見捨てて去る時は、千万劫この地に仏種を植ゆる事は出来ぬ。」と信条を述べています。

愚童師再評価と復権へ向けての動きは戦後民主主義がはじまって後でもしばらくは表に出ることはありませんでした。
しかし、愚童師が埋葬されていた林泉寺では、「内山愚童を偲ぶ会」によって追悼法要や懇談会が行われたり、現代史研究家や法律家らによって、愚童師の思想と行動が評価されていたのです。

そんな愚童師の評価が世に出るきっかけとなったのは、平成四年に林泉寺住職から宗門に提出された「名誉回復について」の嘆願書でした。
それまで、宗門では「逆徒愚童」の汚名を濯ぐことはありませんでした。
宗門にはいつでも"エライ"お坊さんは大勢いらっしゃいますが、「心眼」を持ったお方は一人もいらっしゃらなかったのでしょうか。
「エライ」って一体何なんでしょうか。

因みに「エライ」という愚僧の持論の定義は「心眼」をもって「菩薩の行願に努める人」でしょうか。
そんなエラそうなことを言っている自分こそどうかと問われれば自信ありませんがね。

「心眼」を失う者は個人に限らず団体にも国家にもあり得ると言いましたが、仏教伝道の一大教団である「曹洞宗」もその例に漏れなかったのは実に残念です。
道元禅師の禅を標榜し「正伝の仏法」を自負する曹洞宗が一宗門僧侶の「心眼」と「菩薩の行願」を見抜けなかったのです。
どんな時代背景にあったにせよこの結果は実に情けない話であります。

平成五年、宗門はようやく愚童師の冤罪を認め、教団永久追放・僧籍剥奪・履歴抹消の処分を撤回し、宗門僧侶としての名誉の回復を宣言いたしました。
さらに愚童師の仏教者としての遺徳をたたえ、宗門としての罪過を懺謝(さんじゃ)したのですが、なんと八十有余年の歳月が過ぎ去っていました。

「宗門も時の国家体制に追随し、信仰の自由と平和を希求する良心をも放棄し、仏教者の誓願に背き、教学を歪曲してまで、積極的に戦時体制に協力しました。」(曹洞宗) 「戦争は総て罪悪也」「人類の終局目的は独立自活・相互扶助にある」「女子は男子の付属物ではない」と主張した愚童師の言葉を肝に銘じ、おおいに反省すべきでしょう。

日本近代史上例を見ない暗黒裁判によって、内山愚童師をはじめ12人の社会主義者、仏教僧侶が死刑になりましたが、そのほとんどは当時の刑法に照らしても無実によるものでした。
明治の国家権力が社会主義運動を壊滅させるために仕組んだ国家的犯罪だったのです。
悪質な冤罪事件でありながらも、「再審請求」に対して、昭和42年7月、最高裁判所は「抗告棄却」の決定を下したのです。

弁護側が提出した新証拠資料の精査はまったく行われなかったのです。
この決定によって、法的には冤罪事件としての解明の方途は事実上断たれてしまったのです。
我々一般人は民主主義社会において、「司法」こそ正義の拠り所であると信じてきましたが、司法も只の権力団体に過ぎなかったのです。
例え司法であろうとも、そこに「心眼」が無ければ真実は保証されないということです。

ある宗教団体の使途不明金にしろ、社保庁の組織ぐるみの年金改ざん問題にしろ、どんな団体であれ、行政であれ、そこに「心眼」が欠如している限り不幸は絶えません。
人の世で人が幸せに暮らせるために必要なものは「心眼」であることを愚童師は身を以て教えてくれました。

処刑場に向かう愚童師は最後まで僧侶としての誇りを失わず、理想世界を冀(こいねが)い、泰然として死に臨んだといわれています。
そんな愚童師の遺徳に報いるためにはわれわれ自身が「心眼」を自覚し「菩薩の行願」に努めることです。

先月宗務所研修旅行で箱根大平台の林泉寺へお参りする機会を得ることができました。
内山愚童師のご冥福をお祈りすると共に、曹洞宗にもそんな坊さんがいたということを是非皆さんにも知って欲しいと思いました。

合掌

曹洞宗正木山西光寺