無門禅師は提唱しています。
「不落因果、なんとしてか野狐に堕す。不昧因果、なんとしてか野狐を脱す。
若し者裏(しゃり)に向かって、一隻眼を著得(じゃくとく)せば、便ち前百丈、かち得て風流五百生なることを知得せん。」
「不落因果、なんとしてか野狐に堕す。不昧因果、なんとしてか野狐を脱す。」
この"なんとしてか"にこの公案の意味が込められています。
「不落因果」でどうして野狐に堕ちたのか。そして「不昧因果」でどうして野狐から脱することができたのか、と無門禅師は問いかけています。
つまり、不落因果と不昧因果との違いは何ですか?と言うことです。
「野狐に堕ちた」のと「野狐から脱した」のとの「差」はどこにありますか? もっとはっきり言えば、本当に「堕ちた」のですか?また本当に「脱した」のですか? 更に言えば、何を以って「堕ちた」と言い、また「脱した」と言うのですか?
「一隻眼」とは成仏して得ることのできるいわば"一眼レフ"の「眼」と言ってよいでしょう。
普通の眼のことを「双眼」と言い凡夫の眼、迷いの眼を意味します。
双眼ですから、その眼からみると全ては相対に見えるのです。
右と左、表と裏、東と西、北と南、煩悩と菩提、生と死・・・この見方こそ対立観念なのです。
「一隻眼」は一切の対立観念の無い真如を見る眼ですから、「真実」の姿しか見えません。
だから、右と左の区別も無い。表と裏の区別もない。東も西も、北も南も、上も下も、大も小も、重いも軽いも、長いも短いも、浄も不浄も一切の区別が無いのです。
つまり煩悩と菩提、生と死の区別が無いのです。
生は生で絶対、死は死で絶対、絶対だからそこには他のものは一切入る余地は無いのです。
この絶対無差別の世界こそまさに、生死一如、煩悩即菩提の世界なのです。
「一隻眼」という悟りの世界から観ると、「不落」も「不昧」も無いのです。
「不落」も「不昧」も妄想であり、その実体はまさに一如の世界なのですから。
次に「若し者裏(しゃり)に向かって、一隻眼を著得(じゃくとく)せば、便ち前百丈、かち得て風流五百生なることを知得せん。」とあります。
これは「もしその老人が一隻眼という悟りの眼を開くことができれば彼は五百生という野狐の生涯が決して厭なものではなく、飛切りの風流に満ちた楽しい「人生」だったと知ることができるだろう」という意味です。
それは、悟ってみれば狐の生涯もそれ自体実に完璧な風流に満ちた楽しい"生涯"ではないかということです。
なんともはや素晴らしい境涯ではないでしょうか。
あなたにも是非この公案を透ってこの境地を堪能して頂きたいものです。
野狐で何がいけないの?野狐は野狐で満点ではないか。
迷っていたから仏と野狐が天地の差程隔たっていたのです。
迷っていたから狐に差別感を持っていたのです。
すべては対立観念という迷いから起こっていたのです。
因果の実体を悟れば一切の迷いから解放されほんとうの"風流"が味わえるのです。
無門はさらに「頌」に示しています。
不落不昧。両采一賽(りょうさいいっさい)。不昧不落。千錯万錯(せんしゃくばんしゃく)。
不落不昧。両采一賽。・・・不落も不昧も一つのサイコロである。まったく別のものではないということです。
だから、不落即不昧であり、不昧即不落であるというのです。
つまり、サイコロの采の目は違う二面であってもサイコロの中では一つのものである。
それと同じで、不落と不昧という別のものに見える二面もその実体は一つのものだということです。
不昧不落。千錯万錯。・・・不昧と不落とが別々のうちは何千回何万回も間違いを繰り返すだけのことであるということです。
正に策励の一句と言えるでしょう。
まとめに入ります。
あの老人が、「不昧因果」の一言で悟って野狐の身から脱したと言われていますが、それは悟ってみたら野狐は野狐で完璧だったことが分かったということです。
「野狐の身から脱した」という意味は悟ったことによって野狐であることに心から納得できたということです。
迷っている限り「野狐」は「野狐」なのです。
野狐の身から離れることは絶対にできません。
「野狐禅」という言葉はここからきているのです。
老人にとって野狐になったことが不幸ではなく、因果を超えた世界を妄想し、野狐を越えようとしてあがいたことで五百生という長い長い迷いのトンネルに迷い込んだのです。
百丈によって「不昧因果」と喝破されて、野狐は野狐のまま絶対であり、天上天下唯我独尊であると悟ったのです。
それをもって彼は五百生の野狐の妄想から解脱できたのです。
「不落因果」も「不昧因果」もそれは迷っている限りまったく別の「もの」です。
見性成仏してこそ「不落」も「不昧」も別のものではなく一体のものだと分かるのです。
先月のヒントでも触れたように、不落が色であり、不昧が空であると考えれば分かり易いかと思います。
つまり、色即是空とは不落即不昧であり、空即是色が不昧即不落であるのです。
「不落」も「不昧」も対立観念という妄想によるただの理屈だったのです。
どうですか?これで因果の実体がご理解いただけたと思います。
もうこれ以上の説明はできません。
もしまだ合点できなければまだ分別妄想の境涯にいるということになりますので、あとは御自身の一層の単提を願います。
以上で本論を終えますが、多分他には見られない内容だと思いますよ。(うぬぼれですかね)
あと、この物語が事実に基づいたものなのかという点にこだわる方のために、さいごにこの事についてお答えしておきましょう。
ここに登場する老人は、迦葉仏の時代に前百丈山の住職であったという。迦葉仏とは過去七仏の第六人目の仏さまでお釈迦さまのお師匠さまに当たる架空の仏さまであるので、時は三千年から五千年以上も昔のことになるのです。
そのような昔に百丈山があったということ自体おかしいことですし、五百生の間野狐だったとか、人間の姿で説法を聴きに来ていたとか、大変おかしな話です。
ちょうど狐といえば騙す代名詞のように思われていますが、実際のところまず作り話と言って良いでしょう。
おそらく百丈禅師が何かの用で裏山に登った折りに一匹の狐の死骸に出くわしたことから弟子達のために想像力を駆使して創作された"傑作"の一つでしょう。
ですから、この公案にとって内容が事実かどうかは問題ではありません。
歴史的詮索も地理的詮索も意味がありません。
要は公案の意図する精神の問題です。
公案は"方便"ですから、百丈禅師の「傑作」だと思っておけばそれでよろしいのです。
合掌