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法話

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法話--平成25年3月--

四諦--苦諦その2 出生の苦--

四諦(したい)の諦とはサトヤ(satya)の訳で真理という意味です。 つまり「四諦」とは四つの真理という意味です。

この四つを苦諦・集諦・滅諦・道諦といいます。
般若心経の中に出てくる「苦集滅道」のことです。
釈尊は、「空」を悟ることは同時に「四諦」を悟ることだと説法されています。

前回学んだように釈尊の出発の原点は「苦悩」でした。
人はだれでも生きている以上一切皆苦の中にいるのだという現実に直面し、その問題の解決を求めて出家されたのです。

そして、ついに悟りを得て解脱されました。
解脱とは全ての迷いと苦しみから脱したということです。
解脱されたことから、釈尊は苦に対する四つの真理すなわち「四諦」を説かれたのです。

まず問題提起し、分析し、認識し、そしてその解決策を説いているのが四諦なのです。
その最初にあるのが苦諦ですが、これは、「人生は苦である」という真理です。
生・老・病・死の四苦に、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四苦を合わせて「四苦八苦」といいます。

前置きが長くなりましたが、今回は四苦八苦の最初の「生苦」(しょうく)です。
これは、文字通り「生まれる苦しみ」ということです。
生きていることの苦しみではありません。「生まれ出る」苦しみということです。
いったい「生まれ出る苦しみ」とは何か・・・それが今回のテーマです。

常識からすれば人間に生まれることこそ最高のしあわせです。
にも拘わらず、生まれることが「苦」であるとはいささか理解し難いことです。
しかし、人間の苦の原点は「生まれること」にあるとするのが仏教の真理なのです。

それは、人間に生まれるということは輪廻の世界である三界流転の世界に生まれるという事実からです。
では三界流転の輪廻の世界とは何なのか、まずはそのことから学んでみましょう。

三界とは、この世を精神的レベルから「欲界」、「色界」、「無色界」の三段階に分けた世界のことです。

欲界とは、最も欲望にとらわれた世界のことです。
色界とは、欲望を離れた物質の世界のことです。
無色界とは、欲界と色界を離れた無我の世界のことです。
しかし、無我という禅定にいながら涅槃に到らないため輪廻の世界に留まっているのです。

三界六道を生まれ変わり死にかわりながらさまよい続けることを三界流転とか輪廻転生と言います。
迷いの世界である三界に留まる以上永遠に安まることはないのです。

釈尊は「三界は安きことなし、なおし火宅のごとし」と語られています。
三界で生きることは火のついた家に住んでいるようなものだ。
火に焼かれ苦しむ世界であるからそこには安息は無いということです。

では真の安息はどこにあるのでしょうか。
結論から言えば、その世界こそまさに涅槃にほかなりません。
その真の安息の世界・涅槃を目指す教えがまさに仏教なのです。

涅槃というと、死後の世界を想像する人が多いかも知れませんが、それはまったくの認識不足によるものです。
涅槃とは、絶対無比、完全無欠な「空」の世界のことです。それは解脱し仏陀となられた者だけが入れる世界です。

人類史上その最初の人こそほかならぬ釈尊です。
つまり、生きながらに仏になること、生きながらに涅槃の世界に入る教え・・・これこそ仏教の目指すところであり、言い換えれば「生き仏造り」が仏教なのです。

それには先ず六道から解脱をしなければなりません。
六道とは、苦楽の位置づけで地獄から天上まで六つに分かれた世界のことです。
程度の差こそあれ苦の世界なのです。

地獄とは、時間と空間ともに常に苦に満ちている最下位の世界です。
餓鬼とは、いつも空腹や渇きといった苦が止むことのない世界です。
絶えず飢餓感に襲われている世界です。

畜生とは、動物や魚から命ある生物の世界です。
比較的自由で空腹に悩まされることはありませんが、絶えず弱肉強食の運命にある世界です。

修羅とは、戦いに明け暮れる神の一種です。
いつも帝釈天に敵意と憎悪をたぎらせて戦争をしかけるのです。
戦争や紛争に駆り立てられ安らぎのない世界です。
そのため阿修羅は神でありながら人間よりランクが下になっているのです。

人間とは、四苦八苦の世界です。
ただし精進次第で六道から解脱し涅槃に入ることができるのは唯一人間だけです。
この認識がきわめて大事です。

天上とは、六道のなかでも最上の世界です。
例えば寅さんで有名な葛飾柴又の帝釈天、毘沙門天、弁財天といった「天」のつく神々の世界のことです。
これらの諸天は本来インドの神々でした。

仏教はこれらの神々を仏教の守護神としてとりいれたことで天上界が存在するのです。
一応神の位ですが、解脱をしていないので輪廻の世界に留まっているのです。

輪廻の世界である以上天人といえども死もあれば「五衰」もあるのです。
  五衰とは、老化による五つの体の衰えのことです。
仏典により異なりますが、体臭、脇汗、油垢、抜け毛、視力低下などのことです。

さて、以上で三界、六道、輪廻等の説明を終える訳ですが、大事なことは人間界こそ三界流転の世界であり、四苦八苦の世界だという認識です。
すなわち人間に生まれることは、「苦の世界に生まれる」ことなのです。

たしかに、一般的感覚からすれば、「人生は苦だ」とは申せ、「苦もあるだろうけど、結構楽もあるじゃないか」「仏教は妙なことを言うものだ」と思われる節も多いかもしれません。

しかし、それは大きな錯誤であり、一見楽に思えるものでも実はその本質は苦と一体なのです。
楽とは精神的、肉体的心地よさ、楽しさ、満足感にほかなりません。
永遠に続く楽など絶対にありません。楽はわずか一時のものにすぎず、必ず終わりがあるのです。

ちょうど登り坂の向こうには必ず下り坂があるように、世界には上り坂と下り坂の数は同じだけあるのです。
それと同じように、生があるから死があるのです。生と死は同事なのです。つまり生まれることは死ぬことなのです。

ただ、先にも触れたように、人によって受ける苦の質と量の違いに不条理を感じるのも当然かもしれませんが、その問題についても釈尊は業と縁起論で条理を説かれています。いずれそれについても学んでいきたいと思います。

以上人間に生まれることは、四苦八苦の世界に生まれることだという実態と、「生苦」の意味について、持論を含めながら説かせていただきました。
そして何よりも大事なことは、人間こそ精進次第で六道輪廻の因果から解脱できる存在だということです。

それを信じるからこそ、われわれは仏教に精進できるのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺