9月は秋彼岸です。今年も多くの人たちがお墓参りに見えました。
この時期、当山の地元では毎年恒例の祭礼が行われます。
ひと昔前まではお祭りはお彼岸を避けた日に固定されていたのですが、人の減少から少しでも参加しやすい為として今日では日曜や祭日に当てられるようになりました。
私事ですが、もう何年も前のことです。
町内会長をしていた際、祭礼がお彼岸と重なり大変な思いをしたことがありました。
この地元では、例え住職であっても町内会での付き合いは同等なのです。
拙僧も町内会長として宮殿に上り神事に参列しお祓いを受けお神酒も頂きました。
地元の檀家の皆さんは神社の氏子であり、当山の総代は氏子総代を兼ねているというそんな関係でもあります。
お寺の住職が神事に参加したからといって、誰一人「おかしい」と思う人はいません。
むしろ感謝されるか普通のこととしか思われません。
しかし、これはちょっと考えてみると不思議なことです。
仏教と神道とは明らかに別の宗教です。
誰もそれは分かっていることですが、僧侶と神主が並んでいても「変だ」と思う人はいません。
それもその筈、実際、戸々の家には大抵仏壇と神棚が並んでいるではないですか。
特に田舎では、家を新築すると「家移り(やうつり)念仏」という先祖供養をします。
それは日本の家にはご先祖様を祀っている仏壇があるからです。
ご先祖様に新しい家に引っ越しをしてもらう意味の法要が「家移り念仏」なのです。
仏壇と並んで神棚がありますので、同じように神主さんもお呼びして神棚にも神事を施します。
多くはありませんが、これまで何度も「家移り」の席で神主さんとご一緒させていただいたことがあります。
これは、日本人の意識の中に神と仏を同等に扱うという気持ちがあるからでしょう。
このホームページをご覧頂いている方は自分を仏教徒だと認識している方が多いと思いますが、神仏に対しては同じような感覚をお持ちではないでしょうか。
そんな日本人に、「あなたの宗教は?」と質問すると、なんと62%が無宗教だと答えるそうです。
宗教が生活の核になっている外国人からみて「無宗教」という言葉は驚きなのです。
しかし、日本人が自らを「無宗教」という時、それは「特定の宗教の信者ではない」という意味であって、キリスト教徒やイスラム教徒が思い浮かべるような「無神論者」とはまったく別なのです。
今回は、そんな日本人の不思議?な宗教観について考えてみました。
確かに、結婚式は神社やキリスト教会で行なったり、葬儀は仏式で行なったり、お正月の初詣はお寺でも神社でも特にこだわりは持ちません。
クリスマスを祝ったり、お釈迦さまの花まつりを祝ったり、一神教を主とした外国人からみればまさに日本人の信仰上のアイデンティティーは理解できないでしょう。
お盆やお彼岸は仏教行事です。神社の祭礼は神道行事です。
が、日本人は七五三や雛祭り節句といった文化行事と同等の感覚でしか捉えていません。
外国人からみれば、日本人の宗教感覚はまさに異質であり理解できません。
なぜそうなのかといえば、日本はまさに多神教文化の社会だからです。
自然界の諸事物に霊魂や精霊が宿っているという考え方、これをアニミズムといいますが、そんな八百万(やおろず)の神々がおわしますのが日本なのです。
特に、日本人の心に一番根付いているのは神道(しんとう)です。
神道ではあらゆるものを「神」との結びつきと見なします。
まず自然崇拝から始まり、自然と融和しながら諸々の神を崇め、謙遜とあいまさと共存共栄を尊ぶという神道精神が生まれました。
つまり、日本の文化は、神道の自然信仰がその基盤であり、更に、死者の霊を神様として崇める御霊信仰と、民族の統治者を敬う皇祖霊信仰が派生してきたと考えられます。
古事記も日本書紀も、神話の記述がそのまま歴史の記述へとつながっています。
天皇家の由来を神話時代から語り始め、やがて実在した天皇へつながっていて、初代神武天皇が即位したのは紀元前660年のことです。
神道は、古来あった神々への信仰が、仏教、儒教などの影響を受けて展開してきたと考えられます。
神道には最初から明確な教義があったわけではなく、古来の伝統的な信仰や儀礼が「神道」として認識されるようになったのは、仏教伝来以降のことと考えられます。
538年、百済の聖明王の使いで訪れた使者が、欽明天皇(29代)に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上したことが仏教伝来のはじまりといわれています。
日本に初めて仏教が入ってきたとき、天皇は神道を受け継ぎながら、仏教徒となりました。
初の女帝推古天皇(33代)は仏教を保護し国教に位置付けました。
「仏教興隆の詔(みことのり)」を出され各地で寺院建設が始まりました。
そして聖徳太子を摂政に任命されたのです。
聖徳太子も仏教に深く帰依され、十七条憲法の中の第二条は「三宝を深く尊敬し、尊び、礼をつくしなさい」となっています。
三宝とは仏・法・僧のことであり、仏教徒が諸仏事の最初に先ずお唱えするのがこの「帰依三宝」の偈文です。
平安時代初期、そんな仏教隆盛の流れの中から現れたのが本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)です。
それは、日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現(神)であるとする説です。
そして平安中期には「神仏習合」が確立したのです。
その象徴ともいえる仏像は、その後、法隆寺の百済観音をはじめとして沢山つくられるようになりました。
ここに日本人の宗教観の原点があるように思われます。
日本人は、仏教というと、インドで生まれ、中国を経て日本にやってきたものだと考えていますが、仏教は、ただ外国から伝えられただけのものではなく、日本において神道と重なることによって独特な「日本の仏教」へと開花したのです。
日本人にはもともと神道の生活様式、神道の宗教感覚が根付いていました。
この神道は、いわば日本民族という共同体のための宗教です。
そこに外国から仏教がもたらされたのです。
神仏習合によって、日本人が本来的にもっていた心が、さらに深みをもって表現されるようになり、万葉集やそれ以後の日本の文学、能や狂言、茶道などの芸道は、まさに神仏習合によって生み出されたと言っても過言ではありません。
昔から、一つの集落には必ず一つの神社と寺院がありました。
今でも多くの寺と神社が隣り合わせで存在している事実からもわかります。
文科省の調査によると、日本の全国各地に、神社は約8万5千、お寺は約7万7千、合わせると計約16万2千もの寺社が存在するのです。
神仏習合は、神仏混淆(こんこう)ともいい、仏教伝来から明治維新まで概ね千四百年も続きました。
そしてその文化は美しい日本の国土と人心を育んできました。
とくに仏教に影響を受けた文化的、精神的諸要素は計り知れません。
実は明治維新まで、天皇家は仏教徒だったのです。
事実、飛鳥、奈良の昔から江戸時代最後の孝明天皇(1867年)までずっと天皇の葬儀は仏式で行われていたのです。
天皇家の菩提寺は、泉湧寺(京都市東山区)だったのです。
それが一転、明治新政府は王政復古による祭政一致の立場から、古代以来の神仏習合を禁じて、神道を国教とする方針を打ち出したのです。
そして廃仏毀釈の嵐が吹き荒れることになるのです。
合掌