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法話

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法話--平成25年2月--

四諦--苦諦その1 釈尊の苦悩--

なぜ、仏教はさとり、解脱、涅槃というものをめざすのでしょうか。
それは、仏教の問題認識が、この世を「苦」だと見ているからです。
これは今まで何度も言ってきたことです。(法話「一切皆苦」―苦海の中の魚―平成17・18年参考)

この現実認識をとらえ、仏教は苦からの脱出、苦の解決のため、さとり、解脱、涅槃をめざすにほかなりません。
まさしく、釈尊が出家した原因も釈尊自身の「人生は苦である」という悩みにあったのです。

現代では超人のように思われている釈尊ですが、決して超人ではありません。
前回「法灯明」でもとりあげたように、釈尊は、「わたしを頼ってはならない」と言われました。
その真意は、釈尊自ら自分は超人でも神でもないという宣言だったのです。

釈尊は、神から啓示を受けたり、生まれながらに特殊な能力をいただいていたわけでも特別な存在だったわけでもありません。
あったのは私たちと同じような心の感性です。

釈尊は幼い頃から非常に感性が豊かで、何不自由のない王宮殿の贅沢な生活の中にも多くの疑問を持ち続けたのです。
人生や世の不条理に対する思いは日増しに強くなりました。
その想いが有名な「四門出遊」の伝説となりました。

ある日、王子が城外の園に遊びに行こうとした折の話です。
城の東門から出ようとすると、杖にすがった老人に出会いました。
王子は、従者から全ての人はやがてあのような老人の姿になることを諭され、いたたまれなく外出をやめて城に引き返されました。

気を取り直して後日、やはり園へ行こうとされ、南門から出ると、こんどは病で倒れて苦しんでいる人に出会いました。
従者から人はみんな同じように病に冒され苦しむことを聞かされました。
王子はいたたまれず城に引き返されました。

また、幾日か後、気を取り直してこんどは西門から出て行くと、葬送の列に出会いました。
家族や縁者が悲しみながら棺を運んでいきます。
死は誰にでも必ずおとずれる不幸であると知り大変なショックをうけ、いたたまれずやはり城に引き返されました。

さらに何日が経ち、王子は四度目に北門から外出されました。
すると、そこには一人の出家者が歩いていました。
その姿に何か神々しくすがすがしさを感じとられたのです。

その者に王子は「あなたは一体何者であるか?」と尋ねました。
出家者は、自分は解脱を求める修行者であると答えました。
これを聞いた王子は、これこそわたしが歩む道であると決心されました。

むろん、これは伝説ですが、王子が持ち続けていた「苦悩」を象徴的に表現したものといえるでしょう。
しかし、世の不条理に苦悩し、ついに苦の解決を求めて王子の位をうち捨て、二十九歳にして出家し、人生の全てをかけたのです。

しかし、私たちの一般的な見方から言えば、釈尊は王侯に生まれ何不自由のない贅沢三昧の生活の中で、一体何が不足で「人生は苦である」などという悩みを持ったのか。
いくら感性が豊かであるにしろ、常識では理解しがたい、ずいぶんな変人か我儘お坊ちゃまの印象すら持ってしまいます。

しかし、だれでもが正直に自分自身の人生を見つめてみると、今まで悩みのなかった人など誰一人いません。
又、今現在悩みのない人もいない筈です。
今この文章を見ているあなたも、この文章を書いている拙僧も同じです。
生きている限り悩みの尽きないのが人の宿命なのです。

お金がない。病気で苦しい。人間関係で悩んでいる。
パワハラ、セクハラ、近所付き合い、体力の衰え、老化、不眠症、不妊症、花粉症、対人恐怖症、介護、通院、家事、育児、仕事、責任、ノルマ、借金、ローン、失業、交通事故、離婚、子供の将来、進学、就職、性格、嫉妬心・・・等々。

人生はまさに取るに足らないものから死に追い詰められるものまで大小様々な苦しみの中に存在します。苦悩の極みが自殺ですが、日本では年間3万人以上とか。
一日平均8~9人の人が尊い命を断たれているという悲惨な現実です。
自殺は不幸の極みですが、その原因のすべては心の問題にあると言えるのです。

当山ホームページ「かけこみ寺」にも、ときどき「死にたい」と悲痛な気持ちを伝えてくる人がいます。
「がんばれ」「命を無駄にするな」「生まれてきた意味を考えろ」などと言ってしまえるほど簡単な問題ではないのです。

本人は悩みに悩み、追い詰められてしまっているのです。
「がんばる」ことは分かっているし、十分がんばってきたのです。
「死にたい」とは言っていますが、本心は「死んではだめだ」と自分に言い聞かせ、"死にもの狂い"で葛藤しているのです。

年間3万人と言いますが、死の淵から辛うじて"生還"した人の数はおそらくその何倍にもなる筈です。
自殺願望に追い込まれる心中は如何ばかりか。
人生は実に過酷です。今日人ごとでも、明日は我が身かもしれないのです。
あんな幸せだった人が・・・なぜ。という事例はいくらでもあります。

仏教でいう「人生は苦である」というのは特段哲学的な高尚なことを言っているのではありません。
冷静に現実を見つめるならば、大小様々な苦悩が日常茶飯事に私たちの身の上には起こるのです。
人であれば必ず直面する様々な苦悩がまさに人生の実態にほかなりません。

その事実に対して若き釈尊は正直な心の叫びを発したのです。
そして、解脱を求めた修行者の中に問題解決の大きなヒントがあることを確信したのです。

私たちと同じ人間であったゴータマ・シッダールタ(釈尊の本名)が、同じ人間として、同じ目線で、同じような苦しみを感じ、そこから立ち上がり、そして解脱し「苦」の問題を解決されたのがまさに仏教にほかなりません。

私たちが言う世間一般的幸福とは、健康であることや富、地位、名誉のあること、あるいは家族が愛情で満ち足りていることを言います。
しかし、これらが完全に揃うことはなく、たとえ揃って手に入れたとしても、それは一時のことです。

いかなる権力をもち栄華を誇った王侯貴族や富豪でも所詮私たち一般人と同じです。
いくら権力や富の力があるからといっても、老いないわけでも、病にならないわけでも、寿命がおまけに追加されるわけでもありません。
幸福を保証する担保など微塵たりとも存在しません。
老・病・死は万人に縁に従って平等に訪れるのです。

権力、地位、名誉、健康、繁栄などが真の幸福ではないことをさとった若き釈尊は、苦の実態とその解決を求めたのです。
そして、六年間の修行の結果、釈尊はついに解脱されたのです。
「解脱」とは、さとりによって大自由を得ることです。

大自由こそ大安楽であり、そこには一切の苦も存在しません。
安楽は苦の対極にあるのではなく、苦そのものが消滅した後に出現するものです。
つまり安楽は苦によって覆い隠されているのであるから、苦を取り除くことで人は幸福になれるのです。
まさに苦からの"脱皮"こそ"解脱"なのです。

釈尊は解脱により苦の原因がすべて心の問題であることを突き止めました。
その理論こそ「四諦」であり「八正道」なのです。
すべてが心の問題である以上、人は誰でも心次第で幸福にも不幸にもなるのです。
だからこそ心を鍛え幸せになりなさいという教え・・・それが仏教なのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺