今回は目連(モッガーラーナ)尊者のお話です。
目連は、幼い頃より舎利弗(サリープッタ)とは大の仲良しの間柄でした。
祭りに興じている人々を見て無常を感じ、二人して出家を決意したいきさつは舎利弗尊者の紹介(四月)の中で話したとおりです。
二人は幼なじみで、ほんとうに仲の良い親友同士でした。
性格こそ対照的な二人でしたがいつも一緒で、亡くなったのもほぼ同じ頃で、師の釈尊よりも短命だったのです。
十大弟子の中でも最も早くに弟子となり、力を合わせて初期の教団をまとめていかれたのです。
釈尊もそんな二人をたいへん頼りにされておりました。
先月の「羅睺羅尊者」の中でもふれたように釈尊の実子羅睺羅を出家させ、その後の指導の専任をまかされた程二人に対する信頼が深かったのです。
「智慧第一」と称せられた舎利弗に対して、目連は「神通第一」と称せられました。
「神通」とは一種の超能力のことで、肉眼では見えない処を見抜く力のことです。
こんな逸話が残されています。
釈尊がある法座に臨まれました。
しかし、いつまで経っても説法が始まりません。
侍者の阿難尊者が、「世尊よ、夜も更けましたので、どうかお始めください」と申されますと、釈尊は、「この法座の中に不浄の者がいるので、法を説くことはできない」と申されました。
そこで目連尊者が他心通という神通力をもって不浄な比丘を見つけ、その法座から追放し、改めて釈尊に説法を願ったということです。
あと、なんとも有名なお話が「盂蘭盆会」のいきさつでしょう。
ある日、目連尊者が父母の恩に報いるために修行で得た神通力で亡き両親を探していました。
すると仏界に居るはずと思っていた母がなんと餓鬼界に堕ちていたのです。
骨と皮ばかりに痩せ細って逆さ吊りにされていたのです。
それを見た目連は食べ物を鉢に入れて母に差し出すのですが、母が食べようとするとその食べ物はたちまち火に変わってしまい食べることが出来ません。
目連は悲嘆のあまり号泣し、釈尊のところに行かれ、ことの実情を説明し救済を求めたのです。
釈尊の示されたところによりますと、目連の母が餓鬼界に堕ちたのは過去世の罪過によるものであり、それを救うには多くの出家者に百味の飲食(おんじき)を供養することでした。
7月15日の萬行のあと多くの僧侶の供養を受けて目連の母は救われたのです。
「もし、後の世の人々がこのような行事をすれば、たとえ地獄にあろう者でも救われるでしょうか」と尋ねた目連に、釈尊は「もし孝順心をもってこの行事を行うならば必ずや善きことがおこるであろう」と答えられました。
お盆(盂蘭盆会)の起源はこの曰く因縁によるものであり、お盆こそまさに「先祖供養」の原点なのです。
仏教徒にとって、孝順心によるご先祖供養こそ報恩感謝の証なのです。
さて、目連は又教団のボディガード的存在でもあったのです。
釈尊の説法を守るために異教徒にはことさら厳しい対応をされていました。
そのせいもあってか異教徒からはとくに憎まれる存在になっていたのです。
目連の最期は悲惨でした。
彼を憎む異教徒達に襲われ惨殺されてしまったのです。
瀕死の目連のもとにかけつけたのは親友の舎利弗でした。
「神通力第一の君がどうしてこんな目に・・・」と嘆く舎利弗に、目連は釈尊への最後のお別れの言葉を託して息を引きとりました。
その後間もなくして舎利弗も病のため亡くなってしまいました。
釈尊にとって舎利弗と目連の二人はまさに〝二大弟子〝だったのです。
二人の高弟を一度に失った釈尊の嘆きは如何ばかりだったでしょうか。
その目連尊者がある日世尊に「極楽浄土」について問われました。
目連
「悟りの世界のことを"浄土"といわれますが、その浄土とはどのような世界を言うのでしょうか?」
世尊
「浄土とは悟りの世界の一つの表現である。他に『涅槃』や『彼岸』そして『極楽』なども皆同じ悟りの世界を意味したものだ。 悟れる者とは仏陀のことであり、その者たちの住む世界を浄土と言い、阿弥陀仏の住む国土を『極楽』と言うのである」
目連
「世尊が説かれています『阿弥陀経』にはその極楽の様子が子細に述べられているのはよく承知いたしております。
極楽国土に住む者には何の苦しみもなく、只々いろいろな楽しみだけが有ると説かれています。
国土は四宝(金・銀・瑠璃・水晶)で出来てきており、天上にはつねに美しい音楽が奏でられ、池の蓮の花は様々な光の色を放ち、大地は黄金で覆われ、昼夜綺麗な曼荼羅の花が降りそそぎ、さまざまな鳥たちは優雅にさえずり、人々の寿命は限りなく長く、病も悩み苦しみもなく、一切の罪過も無く、みな阿羅漢の悟りを得ているという。
その極楽浄土に住むためには一切の欲望から解放され、阿羅漢の悟りを得なければならないとされますが、"極楽"の意味とは一体何でしょうか?
つまり、極楽という言葉を文字通り解釈すると、『きわめて楽しい』ということになりますが、もし一切の欲望の無い世界だとしたら、はっきり言って、少しも楽しくはないのではありませんか。その点疑問を感じますが」
世尊
「確かに極楽の中には実際人間の欲望を満足させる多くの対象が有るように感じさせるし、人間を喜ばせるようなものがたくさん出てくるのも事実だ。
極楽という世界がどんな世界であるかということを説いているのは、すでに悟りを開いた仏たちに対してではなく、まだ悟りを開いていない者たちに対してであって、極楽はこんな素晴らしい世界だということを示すためなのだ。
それによって迷える者たちは、ぜひともそんな素晴らしい世界に往生したいという願望を起こすのだ。
いってみれば、まだ煩悩に満たされている者たちを極楽へ導くための"方便"なのである」
目連
「すると世尊よ、極楽には金銀財宝や金色の蓮の花などまったく無いということでしょうか?」
世尊
「そんなことはない。まちがいなく極楽は黄金の国土である。 『方便』とは真実を伝えるための手段であることを間違えないでほしい」
目連
「それでは、欲望も煩悩もない仏たちにとって、極楽に金銀財宝がある意味は何でしょうか?
いくら高価で美しいものに囲まれていたにせよ、それらに対してなんの欲望も感じない者にとって、それらはなんの価値もないのではありませんか?
娑婆世界でしか意味のないような宝物が極楽に存在する必要は無いのではありませんか?」
世尊
「そこが煩悩の世界に生きる者の理解の限界なのだ。
金銀財宝のほんとうの意味がわかっていないからそのような矛盾が起こるのだ。どんな金銀財宝も"煩悩の対象ではない"というところをよ~く考える必要がある。
一切の煩悩のない仏たちにとってどんな金銀財宝も美しいものも、それらは何の価値もないのだ。
"何の価値もない"ということは、金銀財宝はただの金銀財宝であって"ただの物"でしかないということだ。
『ただの物』とは、いわば無価値である。
しかしこの無価値こそ"絶対の価値"であり最高の価値である。
これをすなわち『黄金』というのである。
つまり、どんな場所でも煩悩から離れた世界は絶対無価値の世界になる。
それは同時にそこに存在するあらゆる物すべてが"黄金"になるということだ。
ここに"極楽"のほんとうの意味があるが、理解できる者は極めて少ない」
目連
「わかりました。どんな場所でもどんな物でも、煩悩の対象で無ければ、その場所が極楽浄土であると同時に存在するあらゆる物が金銀財宝になるのですね」
世尊
「その通りだ、目連。わたしが説く西方極楽浄土の真意は、一切の煩悩から離れた処こそすなわち極楽であり、同時にそこに存在するあらゆる物が金銀財宝の存在になるということだ」
目連
「解りました。極楽浄土が実際にあることが大変よく解りました。 ところで浄土と呼ばれる世界はどのくらいあるのでしょうか」
世尊
「仏国土と呼ばれるように、十方にいる仏たちの一人一人が自分の浄土を持っているのだ。それこそ無数といってもよいくらい存在するのだ。
阿弥陀仏の西方極楽浄土のほかに、主なものでは薬師如来の東方浄瑠璃世界、阿閦(あしゅく)如来の東方妙善世界、弥勒菩薩の兜率天(とそつてん)、観音菩薩の普陀落山などが挙げられよう」
さて、今年も12月8日の成道会を迎えました。
およそ2500年前釈尊が転迷開悟され極楽浄土に往生され如来になられた記念の日です。
拙僧が何度も言うように、極楽浄土は決して死後の世界ではないのです。
もちろん涅槃という「生死一如」の意味から言えば死後の世界も当然極楽浄土と言えるわけですが、大事なことは生きているうちに今いる自分のところを極楽浄土に変えることです。
釈尊は一切の煩悩から離れた世界がすなわち極楽浄土だと説かれています。
すべての欲望と煩悩から離れたときに、即今その場所が極楽浄土に変貌するのです。
同時にあなたの持っているものはすべて『黄金』になるのです。
それを信じて修行をし、少しでも極楽浄土に近付ける生き方をしたいものです。
極楽浄土は実際に存在するのですから。
合掌