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法話--令和2年12月--

太平洋戦争の真実 その9 ―ペリリュー島の悲劇 ―

世界には親日国家といわれる国は多く存在しますが、南海の小国パラオこそ親日の度合いから言えばナンバーワンと言えるかもしれません。
今回もユーチューブの中から見付けたそんなパラオと日本兵の感動のお話です。

1885年(明治18年)、パラオはスペインの植民地となり1899年、ドイツに売却され、植民地の時代が続きました。
その時、ヨーロッパ人により持ち込まれた天然痘や圧政と残虐などで6万人いた人口は6千人に激減したといわれています。

帝国主義の白人にとって、植民地政策は例外なく一方的な圧政の下に住民を奴隷のように扱うことでした。
パラオも同様に教育は与えず、インフラ整備も一切行わず、搾取することだけを考えた統治でした。それが“常識的”植民地政策だったのです。

第一次世界大戦後、パリ講和条約でパラオは日本の委託統治領になりました。
日本は全く違いました。
学校、病院、電気、道路などのインフラ整備を行ったり、特に教育に関しては、日本本土と全く同じ人種差別なき政策を実行したのです。

統治時代、日本の行った一連の施策は、パラオに未曾有の経済発展をもたらし、人口も2万人から5万人へと激増したのです。
歴史上幾多の外国支配を受けてきた現在のパラオ人は口をそろえて「日本の統治時代が一番よかった」と述懐するそうです。

日本の敗戦後、パラオはアメリカ統治となりました。
アメリカは浸透していた日本文化の徹底的破壊を試みました。
「日本人は残虐で、パラオ人を虐殺した」などとウソの学校教育を行ないましたが、パラオ人は誰も信じません。
アメリカが行った反日教育の目論見は完全に失敗したのです。

世界有数の親日国であるパラオですが、実は日本が統治していた大戦末期に、今でも日本人が称賛され続けている一つの要因となる重要な逸話があります。
それはアメリカ軍とのペリリュー島の激戦にまつわる悲劇です。

「日本はなぜアジアの国々から愛されるのか」池間哲郎著から一部引用させていただきます。
日本兵とペリリュー島の人々は、共に語り、働き、戦い、手をつなぐ固い信頼と友情が育くまれていました。
戦争末期、いよいよアメリカ軍が押し寄せてくるというとき、実質戦闘員約15倍、兵器物量600倍の圧倒的にアメリカ軍有利な戦局でした。
日本軍はまさに玉砕の覚悟をもってこれを迎え撃つ状況にありました。

島民は「愛する日本兵と共に戦い、自分たちも死んでゆく」と覚悟を決め、中川州男(くにお)守備隊長へ、「自分たちも戦わせてください」と申し入れたのです。
日頃、温厚な隊長は、その言葉を聞いた瞬間、なんと、激高し、「帝国軍人が貴様らごとき土人と一緒に戦えるか!」と大声で怒鳴りつけたのです。

「土人?」「一緒に肩を組み、歌を歌った日本兵たちの思い出は見せかけだったのか?」 「やはり、こいつらは自分たちを見下げていたのだ」と、人々は怒りと悲しみで拳を震わせました。

島からの避難船に島民は乗り込みました。日本兵は誰一人として見送る者はいません。
日本人への怒りと憎しみの思い出があふれ出てきました。
船が避難船へ向かうために、島を離れた瞬間、なんと日本兵全員が真っ白な砂浜に現れたのです。

死を覚悟した日本兵たちが笑顔で手を振り、「達者で暮らせよ!」と声をかけてきました。
一緒に歌った日本の歌を大声で唄っています。涙で顔を濡らす兵士もいます。

そして、その先には、「土人」と自分たちを侮辱した中川隊長の姿がありました。
ペリリュー島の人々は悟りました。
「土人」、あの言葉は自分たちを救うため、自分たちを戦闘に巻き込まないためだったと。島民の目から止めどなく涙があふれ出ました。

昭和19年9月15日、アメリカ軍上陸。
アメリカ軍との圧倒的戦力の違いから、日本軍は長くても3日しかもたないと言われていました。
しかし、守備隊長の中川大佐率いる日本軍は、なんと73日間も持ちこたえたのです。

日本軍は通常の戦闘では歯が立たないと、500以上の洞窟に立てこもり、ゲリラ戦を展開しました。
補給を一切断たれた日本兵は、粗末な武器を手にし、水も食料もなくなるなか戦い続けたのです。アメリカ軍には予想をはるかに超える甚大な被害を与えたのです。

しかしついに11月24日、兵力弾薬は底をつき、司令部は玉砕を決意します。
軍旗と機密文書が焼却され、午後4時決別の電文が発せられました。
玉砕を告げる暗号で中川隊長と2名の幹部、村井少将、飯田中佐は自決を遂げます。

その後、約60名からなる最後の決死隊が組織され、米軍と激しく交戦し、万歳攻撃が行われ、全員玉砕しました。
日本軍の組織的戦闘は終わりましたが、中川隊長の最期や命令を知るすべもなかった西海岸守備隊兵は、その後もゲリラ戦を続け、昭和22年4月の投降まで、さらに2年半も戦い続けました。

中川隊長率いる日本軍は圧倒的なアメリカ軍との戦闘を前に玉砕を覚悟したからこそ、ペリリュー島に住んでいたパラオの人々を全員逃がし命を救ったのです。
実際パラオ人からは一人の犠牲者も出ませんでした。

ペリリュー島の戦いでの死傷者の数は次の通りです。
日本軍、戦死者10,695名、捕虜202名。最後まで戦って生き残った者34名。
米軍、戦死者2,336名、戦傷者8,450名。

アメリカ海軍・ニミッツ提督はこの戦いについて次のように語ったと伝えられています。「この島を訪れるすべての国からの観光客は、この島を守るために亡くなった日本兵がどれほど勇敢で愛国的であったかを知らされるべきです。」
それは敵味方の別を超えた武人としての共感でした。

この戦いで戦死したある日本軍将兵は、次のような最期の言葉を残しています。
「われらここに、祖国を遥かなる南海の孤島に英霊となり、祖国の繁栄と平和、同胞家族の幸福を見守る。願わくば我等のこの殉国の精神、永遠に感銘されんことを。」

戦いが終わって島に戻った島民らは多くの日本兵の遺体を見て泣きました。
島民は日本軍の遺体を葬り、日本の人達がいつ来てもいいように墓地の清掃を今も続けているのです。

2015年4月9日午前、天皇、皇后両陛下(当時)は戦没者慰霊のためパラオ共和国を訪問されました。
激戦地だったペリリュー島で、日本政府が建立した「西太平洋戦没者の碑」に供花して犠牲者を追悼されました。

碑のそばで出迎えた同島などでの戦いの生還者の元日本兵らとも面会し、改めて苦労をねぎらわれました。
「ありがとうございます。戦友に代わって、御礼申し上げます」。
元陸軍二等兵、倉田洋二さん(88)は、ペリリュー島の南西に位置するアンガウル島での過酷な戦闘で散った宇都宮歩兵第59連隊1大隊約1200人の仲間の名簿を手に、両陛下に伝えました。

「陛下の『ごくろうさまでした』というお声が、戦友全員に届いたと思った。」
両陛下は西太平洋戦没者の碑に花を手向けた後、海の向こうに見えるアンガウルの島影にも深く頭を下げられました。

1994年(平成6年)パラオは米国統治から独立しました。
独立国家としての国旗の由来は「青い海に、黄色の満月」という「月の丸」です。
「太陽」を象徴する日本の国旗「日の丸」に遠慮したパラオは、「満月」をモチーフとし、さらに中心を少しずらすことで、日本に敬意を表したという話もある程の親日国になったのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺