四諦--苦諦その4 病苦その2 病気にならない生き方その19
昨年12月の法話で、「アレルギーは『戦争アレルギー』だけで十分です」と締め括りましたが、人類の幸福と平和にとって真の「戦争アレルギー」ほど大事なものはないと拙僧は考えます。
以下その持論を述べてみたいと思います。
毎年この時期、日本人が特に忘れてはならないものが3月10日の「東京大空襲」です。
今年で70周年を迎え、その記憶は時の流れに晒されて歴史の1ページにさせられようとしています。
まだ総括も謝罪もされていないこの大惨事を風化させるわけにはいきません。
そう思うのは拙僧だけでしょうか。
東京大空襲から各地で市街地空襲が本格化し、全国約530市町村でその犠牲者は約20万3千人(原爆被害を除く)にものぼりました。
非業の死を遂げた罪なき人々の無念に想いを致し、その菩提を弔うためにも、日本のこれからの平和のためにも、改めてこの事実に向き合い戦争とは何かを考えることが必要です。
米軍は、М69とやらの焼夷弾を開発し、わざわざテキサスの砂漠に日本の家屋を建ててその威力を実験したのです。
上空で爆発するとゼリー状のガソリンが飛散し建物も人も忽ち火だるまにしてしまうというまさに無差別殺戮のための恐ろしい特殊爆弾です。
日本の20都市に対してその有効性が検討されていたのです。
周到に計画された「東京大空襲」は、効果をあげるため特に強風の日が選ばれたのです。それが3月10日でした。
その日、279機ものB29が30万発を超す1,665トンの焼夷弾を2時間半で集中投下したのです。
さらに効果をあげるため、隅田川や荒川堤防沿いに焼夷弾を集中投下し炎の壁を作り、逃げ惑う人々の退路を遮断し、多くの民間人を焼殺したのです。
戦後生まれの拙僧などには想像もできない、まさに想像を絶する凄惨な地獄図となったのです。
一夜にして10万人ですよ。ネットで写真を見られます。
とんでもない光景です。それだけの人が劫火に焼かれ、川に飛び込み、もがき苦しみ死んだのです。
空襲としては史上最大規模の大量殺戮といわれます。
しかもわざわざ民間人を標的とした計画的無差別爆撃だったのです。
これをテロと言わずに何というのでしょう。
イヤ、日本も「重慶無差別爆撃」を初め「南京虐殺」など数々の無差別殺戮をやってきたではないか。そもそも理不尽な侵略戦争を始めた日本にすべての原因がある。
東京大空襲も、原爆も、結果的に百万のアメリカ兵の命を救ったのだ。というのがアメリカの言い分です。
しかし、当時から非戦闘員の殺戮は明らかに戦時国際法違反だったのです。
この事実をまず受け止めていただきたい。
とはいえ、ヨーロッパでも、ドレスデン、ゲルニカ、アウシュビッツなどの例もあるように、一旦戦争になれば人は誰でも正気を失い、無差別殺戮というテロ行為を平然と実行できる殺人鬼に変貌するのです。
戦場に「道」「非道」の理論はありません。
ましてや「慈悲」や「人権」などありません。
有るのはただ極悪非道無慈悲の世界だけ。
それが戦争というものです。
つまり、戦争の実態はテロ行為そのものであり、兵士はみなテロリストに仕立て上げられるということです。
つい最近千葉で、高校の先生が子猫を生き埋めしたことが大問題となり大きく報道されました。
日本には「愛護動物をみだりに殺したり傷つけた者は、2年以下の懲役または200万円以下の罰金」という法律があります。
そんな平和国家の日本人にとってISの実態はまさに異次元の世界であり、当然理解できません。
しかし、戦時下にいる彼らにとって、テロリストとしての当然の任務を果たしているのです。
だとすると、これから最も懸念されるのが核兵器の使用です。
彼らに宣戦布告された国はいつでもその覚悟が必要です。
残念ながら今や日本も含まれます。
東日本大震災では15,889人が亡くなり、不明者2,594人を数えます。
皆、そのことを忘れないと口をそろえます。
だが、大震災で亡くなった人も東京大空襲で亡くなった人も、同じ無辜(むこ)の同房です。
ただ大きな違いは、天災と違って戦争はまったくの人災だということです。
人災である以上そこには必ず罪が存在します。
一夜にして10万もの人間が用意周到の上惨殺されたのです。
この罪の大きさは計り知れません。
しかし、あれから70年も経ったのに未だその総括がなされておりません。
その罪と責任は一体どこに行ってしまったのでしょうか。
いつも聞こえてくるのは、「戦争だから仕方なかった」「二度と過ちをおかしません」という反省にもならないあやふやな言葉だけです。
当事者である日本とアメリカの双方に納得できる検証と総括が無い以上納得できません。
確かな総括があれば必ず謝罪がある筈です。
たとえ戦争とはいえあれだけの残虐行為に罪意識がないとしたら人間ではありません。
加害者に贖いがあってこそ人間です。
そうでなければ犠牲者は決して浮かばれませんし、人はまた必ずや同じ過ちを犯すでしょう。
第二次世界大戦では、アジアで2,000万、ヨーロッパで4,000万、世界で6,000万人もの膨大な犠牲者を出しました。
日本も230万の将兵と80万の民間人の犠牲を出しました。
そのトラウマから生まれたのが「戦争アレルギー」です。
ともあれ、日本があの焼野原から奇跡の復興を遂げ、比類ない平和な経済大国に成長できたのは、「戦争アレルギー」のお蔭だと言っても過言ではないでしょう。
又、そのお蔭で日本は戦後今日まで戦争せずにやってこられたし、憲法九条も守られてきたのです。
ところがどうでしょう。戦後70年の歳月によって、その「戦争アレルギー」にもハッキリと陰りが見えてきたのです。
とくに安倍政権の発足以来眼に見えて「戦争なんて怖くない」という「抗体」が急速に増殖してきたようです。
「戦争アレルギー」は、健全で良識のある人が持っているものです。これがなくなると人は「戦争がしたい病」「戦争なんて怖くない病」になるのです。
もし、一国の指導者がこの病に罹ってしまったらどうでしょう。
でも、問題は一部国家の指導者ではなく国民の総意です。
それは国民の総意が国の指導者を決めるからです。
良識ある国家指導者を得るには、先ず国民のマジョリティーが良識でなければなりません。それがこれから試されるのです。
そこで是非必要なのが〝本物〝の「戦争アレルギー」なのです。
そのためには、東京大空襲のみならず、原爆や、重慶爆撃、南京虐殺、そして真珠湾攻撃に至るまでそれぞれのテロ行為に対して正しい総括をすることです。
日本もアメリカもそれぞれのテロ行為に対して真摯に総括をして、心からの反省とお詫びをすることです。
それができてこそ、初めて犠牲者が浮かばれ、東京大空襲も原爆も歴史の1ページになることができるのです。
合掌