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法話

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法話--平成20年5月--

因縁(その14)-- 天災の因果 --

中国四川省で巨大地震が発生しました。想像を絶する被害です。
4500万人が被災し、1500万人が避難民となり、死者、行方不明者は8万人以上にもなるそうです。
犠牲者には心よりご冥福をお祈り致します。

その凄まじい実態が日ごと明らかになっています。
肉親家族を失い、家を失い、怪我を負って食べ物も無いまさに絶望のどん底に落とされてしまった被災者の気持ちいかばかりでしょう。慮(おもんばか)る言葉がありません。
阪神淡路の時もそうでしたが、天災の非情さと怖さを改めて思い知らされました。

これほど科学や文明が発達した現代でも天変地異に対して人はまったく無力だということです。
今回の地震に対してもまったく予知はできませんでした。
カエルの大移動や動物の異常行動の方に関心があったのでは「科学アカデミー」も立場がありません。

では天災に対して人はどのように対応したらよいのでしょう。
今回は特に四川の大地震に鑑み(予定であった「百丈野狐の後編」は次回に廻しまして)、この天災という因果について考えてみたいと思います。

天災といえば、地震、台風、サイクロン、竜巻、干ばつ、水害、山火事・・・などがありますが、自然現象である以上仕方のないものでしょうか。
だとすると人は天災には逆らえない運命にあるのでしょうか。
天災が運命だとしたら避けられないのか。あるいは避けられるのか。
天災とはどのような因果なのか。そして術はあるのか。それが今回のテーマです。

結論から言えば、天災は運命ですから避けられません。でも術はあるのです。
天災はすべてを呑みこんでしいますのでそこから逃れることはできません。
それが運命というものです。
あと私の言う「運命」とは「宿命」ではありませんので、その点誤解の無いようにおねがいします。

因みに「宿命」とは因果に関係なく決まってしまっている「結果」を意味します。
これは仏教の因果の法則から言ってもあり得ない理論なのです。
この認識は重要です。

しかし運命には因果において避けられない部分と避けられる部分があるのです。
それは「川の流れの例」で以前にも説明したとおりです。
どういうことかと言いますと、因果は個々によって違うのです。
だから当然被災の程度にも差が出るのです。

一緒にいても助かる人もいれば助からない人もいるのはその因果によるのです。
理不尽かもしれませんがそれが真理であり真実です。
百人百様の人生があるということは百人百様の因果があるということです。

そこで考えなければならないのは天災の中の人災です。
そこにサバイバルがあるからです。
特に「人災」は人為によるものだとすると避けられる確率は百パーセントに限りないということになります。
ここを見極めなければなりません。

とくに近年地球温暖化による災害が増えてきていますが、温暖化が人為によるものだとすると、天災の中に人災の部分がかなりあると見るべきです。
では次にその天災と人災の関係について考えてみましょう。

人間はいつでも自分たち人間が中心でした。
人間こそ第一優先だとするそのエゴは止まるところを知りません。
化石燃料は無制限に消費され地球の温暖化は一挙に進んだのです。
その温暖化が叫ばれて久しく、誰でも温暖化と異常気象の関係は知っていたにも拘わらず真剣に考えるようになったのはごく最近のことです。

異常気象により様々な二次的被害三次的被害が出ています。
これこそ人災による人災です。
干ばつにより穀物の不作から食糧争奪の暴動が起こりました。
ガソリンや食料品や生活用品全般に高騰の波が押し寄せています。

それはさらに、富は富を呼び、貧は貧を呼ぶという不条理のスパイラル現象を生み、格差社会を益々増長させています。
その末端にいるのがいつも弱者です。まさに不条理な人災です。

人間はこれまで自然も地球も自分たちのものであり水も空気もタダ(無料)が当然だとして好き勝手にやってきました。
その結果の温暖化なのです。
ようやく自然も地球上も有限であることに気がついたようですが、遅きに失した感があります。

しかしアメリカなどは巨大サイクロンにより甚大な被害を被ったにもかかわらず未だに温暖化対策に消極的です。
今年もシーズンがやってきます。
同じようなことが起こる確率は極めて大きいのです。
アメリカは環境犯罪国家と言われる前に真っ先に緊急最重要課題として取り組むべきです。
地球上の"もの"はすべて一連託生なのですから。

自然がなおざりにされ多くの生物や動物が絶滅に追いやられました。
現在でも絶滅に瀕している種は限りなく多いそうです。
しかし皮肉なことは、その主な原因である自然の形態を損ねてきたのは他でもない人間なのですが、その人間自身が今環境変化によって追い込まれているということです。

しかし理不尽なことは、温暖化に"貢献"していない発展途上国ほどその被害を被っているということです。
干ばつで食糧も無くなり飢えに苦しんでいる人々や、海面上昇により住まいを追われ耕地を失ってしまった人々の苦しみは計り知れません。
まさに犯罪的人災と言えるでしょう。
先進国はこの現実を真摯に受け止め誠意も持って援助すべきです。

環境あっての命です。 このままいくと人類はそう長くないかもしれません。
人類の歴史は原人から数えてもたかが100万年です。
恐竜は地球上で1億6500万年もの間生き続けました。
その恐竜に比べたら人類は線香花火のようにパッと光ってあっという間に消え失せてしまう運命なのでしょうか。
人間は恐竜よりも智恵はある筈です。智慧を使うのは今のうちです。

自然や環境には国境はありません。
人類を護ることと地球を護ることとは同事です。
それにはまず人間至上主義のエゴを捨て去ることです。
大自然から離れて人間は存在できません。
それを肝に銘じて"人災"を減らす智恵を働かせるべきです。

今回の中国四川の未曾有の大地震の中にも人災の部分があった筈です。
天災は同時に"人災"をもたらしますが、その矢面に立たされているのはいつも貧しい人々や弱い人々です。
特に学校の崩壊が際立ちました。
生徒と教師の六千五百人以上が犠牲になったそうです。痛ましい限りです。

なぜ学校ばかりが。なぜ子供たちばかりが。なぜ救助が遅いのか。なぜ自分たちばかりが。親御さんの気持ちは筆舌に尽くせません。
手抜き工事の疑いも言われています。
それにさらに疑問に感じるのは、なぜもっと早く海外からの救助を受け入れなかったのかということです。

その″なぜ″に答えるのが情報公開です。
何でもそうですが開かれなければ真実は見えません。
被災者の「なぜ」の疑問に答えられない以上"人災"という誹りは免れません。
特に政治は開かれてこそ民主主義であり国民の信頼を得られるのですから。

中国政府はようやく海外からの援助を受け入れましたが、なぜはじめ日本からの緊急救助隊を断ったのでしょうか。そこにも疑問が残ります。
もしかしたら幾つも救われた命があったかもしれません。
核関連施設の情報もまだ不十分です。
情報の公開も無く人民の命と生活を後回しにして永く保った政権はありません。
歴史が証明するところです。

ミャンマーもそうです。
先のサイクロンでは200万人が家を失い10万人が死亡したと伝えられますが、国連人道問題調整事務所の推計では犠牲者はなんと32万人にもなるそうです。
ほんとうのところは一体どうなっているのでしょう。

軍事政権はほとんど情報も公開せず救護対策も怠り外国からの援助さえも断り続けました。(最近ようやく国際的非難に屈して外国の援助を受け入れました。) これこそ人災と言わず何と言うのでしょう。
"人災"は故意であれば許されない犯罪です。

中国はチベット問題に続き今回の大地震と散々でした。
しかし中国は1976年、史上最大級の地震を経験しています。河北省・唐山地震です。
なんと死者24万2千人という地震史上最大の犠牲者が出ました。
その犠牲者の数が明らかにされたのは地震発生から3年も経ってからのことです。

当時はもっと閉ざされた国だっただけに情報公開もなく国際援助も無かったのでしょう。
それにしても、たかが32年前のことです。
天災の部分は仕方ないものとしても、その教訓がもっと生かされていたのであれば、人災の部分はもっと少なかったかもしれません。

中国政府は今国民と国際社会から注視されています。
民主主義社会をアピールするなら情報公開です。
オリンピックが成功するためには信頼と協力が不可欠なのですから。

言うまでもなく日本も決して他人事ではありません。
特に日本は超地震大国です。
近い将来百パーセント大地震はやってきます。予知も難しいでしょう。
人は"天の下"と"地の上"に生きている以上"天変地異"という因果は避けられません。
これが運命です。

天災も人災も運命ですが、災難は因果次第であると申しました。
しかし、その因果には「縁」が有ることを忘れてはいけません。
以前、「生活のすべてが因果」だということを申しました。
それはどんな小さな結果にもすべて「縁」が関わっているということです。
だからこそ「縁」における自己責任の認識が重大なのです。

天災であれ人災であれ、どんな状況下であっても「縁」が働くのです。
そしてどんな状況下であっても結果を決めるのは「縁」です。
因果を信じるということは縁を信じることです。
縁を信じることとは縁を大事にすることです。
縁を大事にすることとは精進することです。
精進することで真実が見えてきます。
真実の中に智慧があります。そこに災難に対応する術があるのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺