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法話

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法話--平成30年10月--

師の遷化によせて ― 善知識に感謝と哀悼 ―

秋もいよいよ深まり秋の風情と秋の味覚を楽しめる時期となりました。
当山庫裏先の庭に何本かの甘柿の木があり、今年も多くの実が成りました。
柿好きの拙僧自身が30年程前植えたものでこの時期毎日何個か食べています。

そんな柿に小鳥もご相伴にあずかりにやってきますが、ちょっと感心することがあります。
それは、自分が啄んで食べる柿を限定していることです。
小鳥ですから、一個の柿を一度には食べ切れません。毎日少しづつ食べに来るのですが、前回食べ残した同じものを食べています。

つまり、手当たり次第口を付けるのではなく、自分が食べている柿を最後まで食べてから別のものに手を付けているという、他愛もないことですが、そんな小鳥に妙な「マナー?」を感じますが、小鳥自身はどう思っているのでしょうか。

話ついでに申せば、柿は栄養が大変豊富で健康に良いそうです。
「柿が赤くなれば、医者が青くなる」と言われるほどの健康食品としての優れた果物だそうです。

ビタミンCは柿一個で一日の必要量がほぼ賄えるとか。
その他各種ビタミン類からカロテン、ミネラルまで、様々な栄養、抗酸化物質が含まれていて、腸内環境の調整から、ガン予防、老化防止などなど、この時期食べないと損するようなものです。

特に二日酔いには効果が高いとか、酒好きの方(拙僧自身も含め)は是非意識して食べた方が良いのではないでしょうか。
ただ気を付けることは、身体を冷やす効果があることや、特に干し柿になると高カロリーなので、糖尿病傾向の方などは注意が必要だそうです。

何か、「病気にならない生き方」の内容になってしまいましたが、体に良いものだからといってそればかり食べていたのではむしろ「偏食」になってしまいます。
仏教の中道の精神と同じで、食事もバランスが大事です。
偏らない食事にこだわることが必要です。

さて、拙僧が若い時から禅の指導を受け懇意にさせて頂いていた“恩師”ともいえる鴨川市龍泉寺住職(東堂)三浦良憲老師が去る10月1日八十七歳にて遷化されました。
11日に本葬儀が修行されました。
はからずも拙僧奠茶師の命を賜り、感謝と哀悼を捧げさせていただきました。

因みに、今回はご老師との縁と自分自身の昔に想いを巡らしてみました。
ご老師との縁は、拙僧がまだ得度する前の十代の頃に遡ります。
これから坊さんとして得度する前、坐禅の経験が必要だと言われ、師匠によって東京品川区豊町にある東照寺という寺の寮に入ることになりました。

その寮の名は「同愛寮」と言って、寮費も安価なことから一般社会人もいましたが、主に地方から出てきた大学生で占められていました。
お寺は参禅道場でもありますから、寮生は当然毎朝坊さんと同じような坐禅とお勤めが必須です。
4時起床、体操、坐禅、勤行、作務(そうじ)、そして食事になります。

何よりも大変だったのは、春、夏、冬の年三度の接心会(せっしんえ)です。
接心とは五日間(本来は七日間)坐禅を集中して行う行事のことです。
拙僧が入寮したのは四月の春の接心会の前日でした。

その日の夕方、先輩より坐禅の仕方を教わり、食後の席で一人の若い坊さんから、「明朝4時振鈴、接心に入る」と、厳しい口調で告げられました。
その若い坊さんこそ、三浦良憲老師だったのです。自信のない拙僧など怖くて近寄れないような存在でした。

坐禅の「ざ」の字も知らない自分にとって、接心とは何か当然分かりません。
翌朝から始まった坐禅は段々厳しい雰囲気になっていきました。
しかし当初は坐禅にやる気もなく仕方なく座っていたというのが正直なところです。

当時三浦老師はまだ三十代前半で単頭職(坐禅の指導者)にあり、若くて実直な青年僧だったので厳しさは半端ではありませんでした。
独参(どくさん)のため廊下に正座して順番待ちしている間でも容赦ない警策(きょうさく)を受けました。

因みに、「独参」とは師家(しけ)の部屋に一人で赴き直接対峙し指導を受けることです。
「師家」とは、坐禅と仏法を教授する特別な資格を持った指導者のことです。
東照寺では住職の伴鉄牛老師が師家として剛腕を振るわれていました。

「警策」とは、いうまでもなく坐禅中に肩を叩く棒のことです。
東照寺は曹洞宗ですが、臨済宗系の公案を採り入れた流儀(いわゆる看話禅)だったので、頂いた公案を一心に単提します。

その公案の答えを求めて独参するのですが、答えが解っても解らなくても何度も繰り返し独参するのです。
師家はいろいろな方法でヒントをくれますが、決して答えはくれません。
公案はあくまで自分自身で悟らなければ意味がないからです。

師家伴鉄牛老師は原田祖岳系曹洞宗と呼ばれる会下(えか)にありましたので、ここで原田祖岳老師についてお話しておきましょう。
原田老師は、7歳の時に曹洞宗の寺院に小僧として入り、20歳のときに自ら臨済宗正眼寺で修行、その後曹洞宗、臨済宗の双方の高僧を歴参されました。

臨済宗系の修行で見性(さとり)された老師だけに、禅の修行は公案禅を基本とするのが最も合理的だと認識されその流儀を貫かれたのです。
「坐禅をしている姿がそのまま仏である」という、いわゆる「只管打坐」を標榜する曹洞宗本山や宗門の大学研究者に当時真っ向から対抗したので、異端的存在と見なされましたが、駒沢大学(曹洞宗立)仏教学部の教授を12間勤められました。 

仏教の本来の眼目は「見性(けんしょう)」であると主張する原田老師は、時として永平寺に対抗しました。例えば、「道元禅師は独参をしていた。
永平寺には当時の『独参』の単牌がある筈だ」と主張しましたが、永平寺からは無回答だったそうです。 単牌とは修行内容を伝える「告示板」のことです。

福井県小浜の発心寺二十七世として晋住、専門僧堂を開単。ほかに五カ寺(宮津市智源寺など)を歴住し、そして東京品川に東照寺を開山されたのです。
非常に厳格な人柄で、生涯独身を通され92歳で遷化されました。

そのような異色の高僧の弟子の一人が伴鉄牛老師ですから同じように指導が厳しかったのは、師に倣って当然だったのかもしれません。
またその厳しさを更に受け継いだのが三浦良憲老師でした。

「原田祖岳系」と言いましたが、臨済宗との違いは、ただ公案を透過するのが目的ではなく、先ず「無字」の公案の徹底で「見性」を目指すのです。その関門が、文字通り祖録「無門関」の第一則「趙州狗子」(じょうしゅうくし)の「無字」の公案です。

「犬に仏性が有るのか」の質問に対して、「無」と答えたが、その真意は何かという公案です。
無門関の著者・無門慧開禅師自身がこの「無字」の一字で大悟されたことから、この公案が第一則になっているのは理に叶ったものと理解できます。

「無門関」という名のとおり、もともと門など無いところに、我々凡夫は分別妄想により実体のない門を築いてしまっているのです。
何としても、一度これら人間の妄想が作り上げた理屈の門を破壊して、真の「無門」の実体を見る必要があるのです。
これを見性(けんしょう)と言います。(当山法話「17年12月成道会」、「19年3月無字の公案」乞参照)

拙僧30歳過ぎてから、更に公案を透過したいという思いから、当時の三浦良憲老師の参禅道場を訪ね参禅しました。
老師の提唱を聞いていると、師の伴鉄牛老師の仕草に妙に似てきていることに子弟愛を感じた印象があります。

未熟な拙僧にも拘わらず単頭の位を頂きながら、何の恩返しもできなかったことを今更ながら恥ずかしく思います。
拙僧自身の晋山式の助化師、本師の本葬儀の秉炬師(導師)などをお勤めいただいた恩もございます

東照寺、伴鉄牛老師、そして三浦良憲老師との縁がなければ、少なくても今のこのホームページは無かったのは確かだと思います。
改めて老師への感謝と哀悼の意を捧げます。ありがとうございました。

合掌

曹洞宗正木山西光寺