『ここに言う老心とは父母の心です。
親がわが子を思う気持ちで三宝としての修行僧を思うべきです。
貧しい者も苦しんでいる者も、一心にわが子を愛し育てます。
そういう親の心とはどういうものか、その身にならないとわからない。
自分が父の身となり母の身となって考えてこそわかるのです。
自分が貧しいとか裕福であるとかに関係なく、ひたすらわが子の成長を願う。
わが身の寒さ暑さをかえりみず、わが子をかばい、守る。
これは、親ならばこその切なる思いです。
このような気持ちをもったことのある者には老心というものがわかるのです。
常に親心をもち続けている者なら老心が身についています。
ですから、典座は水やお米を見るにつけても、わが子を養う慈しみ愛す気持ちをもって調理すべきではないでしょうか。
お釈迦さまは、まだ二十年の寿命があるのに、後世の私たちのために残してくださいました。
それはどういう意味をもつでしょうか。
子を思う親心を示されたのです。
お釈迦さまはその見返りを期待したわけではなく、富や名声を求めたわけではありません。』(菅原昭英氏監修「口語訳典座教訓」より)
要約しますと、「老心」とはすなわち親心であり、その心をもって仏法僧の三宝を心にかけないさい。だから炊事職にある者にとって、水や穀物はわが子の如きものであるので、慈しみねんごろにあつかう心を持つべきであると示されています。
お釈迦さまは、八十歳で入滅されたわけですが、本来百歳あったとされる自らの寿命の内から二十年の寿命を後世の私たちに遺贈されたわけですが、その意味を考えなさいということです。
それはただただ薄福小徳の一切衆生を哀れんでのことであり、お釈迦さまはそれに対する果報など一切の見返りなどは期待もされませんでした。
そのお釈迦さまの清浄無垢の御心こそがすなわち「親心」であり「老心」なのです。
われわれはみな子々孫々においてこのお釈迦さまの「二十年の遺恩」の恩恵を知るべきであり、その大慈恩に報いることとはただただ仏法僧の三宝に帰依することなのです。
さらに禅師は、「万法の中、最尊貴なる者は三宝なり」(あらゆるものの中で最も尊く優れたものが三宝であり)、それゆえに、「三宝を存念すること一子を念(おも)うが如くせよ」(親が子を思うが如く三宝を思いなさい)と教示されているのです。
その三宝とはすなわち仏法僧のことですが、大事なことは仏・法・僧の三つはそれぞれが別個のものではないということです。
つまりこの三つは正に一体のものであるということです。
すなわち仏に帰依することは法に帰依することであり、法に帰依することは僧に帰依することであり、僧に帰依することは仏に帰依することになるのです。
ですから食事を作ることはすなわち三宝に召しあがっていただくことになるのです。
この認識が特に大事です。
禅師は「教訓」のなかで僧について次のように述べられています。
「『禅苑清規(ぜんねんしんぎ)』にも言われるとおり、『この世でもっとも尊く、俗世間から超脱してゆったりと落ち着いており、清らかで何ものにもとらわれない境地にあるものは、修行僧をおいてほかにない』のです。
いま、自分が幸いにも人間に生まれて、この最高最良の三宝に召しあがっていただく食事をつくることができるのは、なんとありがたいめぐり合わせだろうと喜ぶべきです。」(典座教訓)
その最高最良の三宝に召しあがっていただく食事を作る人こそ典座なのです。
「朝食でも昼食でも、作法どおりに出来上がったら、飯台の上に置き、典座は袈裟をかけ、坐具を敷いて、まず坐禅堂の方向へ向かってお香を焚き、九回礼をします。
この礼拝が終わってから食事を運ぶのです。」(典座教訓)
この作法は「僧食九拝(そうじききゅうはい)」といって現在でも修行僧堂で行われている行事です。
食事ができあがり、食事を僧堂に運ぶとき、典座和尚はお袈裟をつけ、僧堂の方向に向かって九回お拝をするのです。
それは同時に心を込めて作った料理に向かってお拝をするかたちにもなっているのです。
また浄人(給仕係)達も典座と共に合掌立拝するのです。
この様子は僧堂に修行している者にしか見ることはできませんが、その荘厳な光景は実に心引き締まるものです。
ここで大事なことは、『この世でもっとも尊く、俗世間から超脱してゆったりと落ち着いており、清らかで何ものにもとらわれない境地にあるものは、修行僧をおいてほかにない』というその意味です。
典座和尚や浄人が僧堂に向かって九拝するのは確かに修行僧を尊んでのことですが、その真意は、修行僧はただの僧だけの存在ではないということです。
つまり先にも述べたように仏法僧の三宝は三位一体であるから、「僧」はすなわち「仏」であり「法」であると捉えるのです。
その意味で食事を作った典座和尚はじめ浄人達の九拝はすなわち三宝に対してのお拝いなのです。
さらには食事その物さえも仏身と捉えるのです。
この認識が無ければ僧堂での一大行事は理解できないでしょう。
また、それだけに食事をいただく側の雲水たちにも実に厳粛な作法があるのです。
坐禅を組みながら、読経をし、細かい作法に従っていただくのです。
特に応量器(食器)のご飯を盛る器は「頭鉢」と言って、お釈迦さまの頭と見なされ特に大切に扱うことが求められます。
特に若い新到(しんとう)和尚(新米雲水)はまずこの食事作法でしごかれます。
合掌の仕方に始まり、返事の仕方、器の並べ方、眼の位置、姿勢など、文字通り箸の上げ下ろしから食べ方まで、詳細にわたってたたき込まれます。
展鉢(食事作法)は新到和尚にとって最初の試練の一つですが、やがてこの行事作法に慣れてくると、今こうして生かされ修行できる尊さが徐々に感じられるようになるのです。
そして、やがて仏祖をはじめさまざまな人達との縁のおかげで今日があるという感謝の念が少しずつ湧いてくるのですが、その気持ちも厳しい修行のお陰なのです。
曹洞宗では「威儀即仏法」といい、特に行事作法には厳しいのです。
それは心と行動は一体のものであるから、厳格な行事規範によってこそ心が鍛えられると考えるからです。
様々な宗派の中でも曹洞宗が特に作法に厳しいといわれる由縁です。
そろそろまとめに入りましょう。
「一本の野菜でも仏さまのからだとしてたいせつに扱い、仏さまのからだを一本の野菜にこめて、これをたいせつに生かすのです。
それは典座の霊妙なはたらきと自在な工夫であり、仏道修行であり、すべての修行者の利益となるのです。」(典座教訓)
一粒のお米から一本の野菜から、すべてのものに仏性がある。
だからその一つ一つを大切に生かすことが仏法僧の三宝に帰依することであり、それは自己に限らず同時にすべての修行者のためになるというのです。
厳しい修行も炊事もすべては三宝に帰依するためのものです。
三宝と自分が一体のものであるという、つまり、食事を作る人も、それを食べる人も同じ仏さまだという、そのことが分かるのが悟りなのです。
その悟りに少しでも近づくためにはすべてのものに無償の愛情すなわち親心を持って臨むことです。
この心をすなわち「老心」と言うのです。
合掌