新元号「令和」が発表されました。
万葉集の「梅花の歌」よりの引用だとか。
「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ、梅の花のように、日本人が明日への希望を咲かせる国でありますように」との意味だそうです。
いよいよ平成が終わり令和の時代が始まります。
今上天皇から徳仁天皇へ、美知子皇后から雅子皇后へと引き継がれるわけですが、言うまでもなく、天皇は日本国の象徴です。
その象徴が新たになり、元号が改まれば国民の気持ちも新たになるのは当然かもしれません。
そして新天皇の性格、振る舞い、それを国民がどう受け止めるかで、国の雰囲気にも影響を与えることになりますから、天皇の責任は重大です。
天皇の責任と言えば、昭和天皇の戦争責任です。
一時国内に於いてもその「戦争責任論」が議論されたことがありました。
また最近では韓国の国会議長が、現天皇を、「戦争犯罪の主犯の息子ではないか」などの非礼極まりない暴論まで飛び出しました。
日本国民としては黙ってはいられません。
昭和天皇御自身がその「戦争責任」にどう向き合っておられたのか、その真実を窺い知る貴重な文書をネットユーチューブで発見しましたので、以下そのままを紹介させて頂きます。
昭和天皇と日本の先行きを決めるマッカーサー元帥との会見についてご紹介します。
終戦時において天皇陛下に対する占領軍としての“料理”の仕方は、幾つかありました。
一つは、共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭にあげる。
二つ目は、中国に亡命させて中国で殺す。
三つ目は、闇から闇へ一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。
いずれにしても、陛下は殺される運命にあったのです。
天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大な聖者か、いつでも捕まえられる。
かつては18,000人の近衛師団に守られたかもしれないが、今や全くの護衛を持たずして二重橋の向こうにいる。
陛下の割腹自刃の計画は三度ありました。
貞明(皇太后)様は、(侍従に)陛下から目を離さないよう命じました。
実は一番悩まれたのは、陛下でありました。
そして運命のときがやってきました。
連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーとの会見に向かわれるときの様子を同行した通訳は、こう回想されています。
皇居を出発した昭和天皇の表情は、「非常に厳しいお顔だった」と・・・
まず側近は、生きて帰れるかどうか心配したんですね。
陛下は、決死の覚悟で乗り込んだわけです。
日本の運命と自分自身、皇族の運命がかかっていましたから。
そして、緊迫した会見・・・
9月27日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。
ついに天皇を捕まえるべき時がきた。マッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じました。
マッカーサーは、陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえ、ソファーから立とうともしませんでした。
陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。
「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。
私の命においてすべてが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。
絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられてもいつでも応ずるだけの覚悟はあります」
弱ったのは通訳でした。
その通り訳していいのか・・・
しかし陛下は続けました。
「しかしながら、罪なき8,000万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。 温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いという中で一切の責任はこの私にあります。
絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても・・・と淡々として申された。
このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であったのです。
陛下は我々を裏切らなかった。
その時の気持ちをマッカーサーは回想記でこう記しています。
「私は、大きい感動でゆすぶられた。死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする。
この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、日本の最上の紳士である事を感じ取ったのである」
そして、後に側近のフェラーズ代将には、「私は天皇にキスしてやりたいほどだった。あんな誠実な人間をかつて見たことがない」と語ったといいます。
(当時外務大臣であった重光葵氏が、1956年9月2日、ニューヨークでマッカーサー元帥を尋ねた時の談話による)
「一言も助けてくれと言わない天皇に、マッカーサーも驚いた。彼の人間常識では計算されない奥深いものを感じたのだ」 そして、陛下のお言葉にマッカーサーは驚いて、すくっと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と、マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、「天皇とはこのようなものでありましたか! 天皇とはこのようなものでありましたか! 私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけください」と。
陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と。
その後マッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。
皆様方、日本は8,000万人と言いましたが、どう計算しても8,000万はいなかったでしょう。いかがです?
一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして八千万でしょうか。
実は6,600万人しかいなかったのです。
それをあえて、マッカーサーは、8,000万として食料をごまかして取ってくれました。
つまりマッカーサーは、いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。
米国大統領からは、日本に1,000万の餓死者を出すべしと、マッカーサーに命令が来ておったのです。
ただ一言、マッカーサーは、「陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた」と言いました。
彼は陛下のために、食糧放出を8,000万人の計算で出してくれました。
それがあとでばれてしまいます。彼が解任された最大の理由はそれであったというのが事の真相です。
あの戦争は昭和天皇でさえ止められない程、巨大な力がうごめいていました。
天皇陛下は、1977年夏、初めて戦後の思い出を語りました。
しかし、マッカーサーの初会見で、何を話したかについては、言えないと答えました。
「マッカーサー司令官と、はっきり、これはどこにもいわないと、約束を交わしたことですから。男子の一言の如きは、守らなければならない」と。
1989年1月、昭和天皇は亡くなるまで、ついにマッカーサーとの会見の内容について語ることはありませんでした。
戦後の日本が存在出来たのは素晴らしい御心を持っておられた天皇陛下とマッカーサーに他ならないと思います。
これぞ日本人の象徴であられる御精神です。
合掌