12月8日は成道会(じょうどうえ)です。
御存知お釈迦さまが人類ではじめてお悟りを開かれた記念の日です。
「悟り」にはいろいろな表現がありますが、その一つが「大安心」(だいあんじん)です。
「成道」とはつまり「大安心」を成し遂げられたという意味です。
お釈迦さまは自らが体得した「大安心」を人類に教示せんと発心されました。
現身仏としてのお釈迦さまは2500年前に入滅されましたが、爾来法身仏として而今においてなお説法されているのです。
我々が毎日礼拝するのは単なる偶像崇拝からではありません。
お釈迦さまは法身仏として現存されていると考えるからです。
そのお釈迦さまの大恩に報いるためにわれわれ一人一人が志しを新たにする日が成道会です。
お釈迦さまの願はただ一つ衆生済度です。
それは一切衆生に「安心」を与え苦しんでいる人を一人残らず救済せんとする大誓願です。
しかしその大誓願はお釈迦さまの大慈悲心をもっても尚お一人では手が足りません。
そこで多くの仏に意を託されました。その代表格が「菩薩」です。菩薩の使命は菩提心の宣揚と実行です。
これまで何度も触れてきましたが、菩提心とは自分より先に他の人々を"救う"ことです。
「救う」とはすなわち「安心」を与えることです。
「安心」がないところに心配や、悩みや、苦悩や、苦痛といった「不幸」が生まれます。
「安心」こそ幸福の証(あかし)なのです。
人にとって「安心」が一番です。
しかし、どうでしょう。今ほど「安心」の失われてしまった時代はありません。
世界は百年来ともいわれる大不況の嵐に襲われています。
日本でも多くの人達が職を失い途方に暮れています。
毎日のニュースを見ていると明日は我が身かもしれないという"不安"に襲われます。
不安は生活苦に限ったことではありません。
富のある人やエライ人達にも不安はあります。
今天皇陛下は極度のストレスによって体調を崩されているとか。
天皇陛下でさえ精神的苦痛に見舞われるのです。
どんな富や地位や名誉も「安心」の担保にはならないということです。
これまで人類は驚異の発展をしてきました。
しかし、2500年昔のお釈迦さまの時代から人の心の「不安」は減ってはいません。
むしろ増えているのかも知れません。
それは、社会が高度化され機密化されるに従って「心」が疎外されてきたからです。
増え続ける虐待、いじめ、詐欺、テロ、殺人、自殺などはみなその結果の表れなのです。
特に象徴的なものがインターネットです。
便利さに紛れて裏サイト、闇サイトが暗躍し、いじめ、自殺、詐欺、殺人など陰湿卑劣な犯罪の温床になっています。
さらに今大問題になっている年金問題から医療、福祉そして雇用問題などもみな人の心がもたらした結果です。
政治が悪い、社会が悪いと言ってもその指導者を生み出してきたのは我々自身なのです。
会社にしろ、行政にしろ、組織集団はみな人の心の寄せ集まりなのですから、問題は一人一人の心にあるということです。
その原因を辿れば、それは間違いなく我々一人一人に菩提心が欠如していたということです。
一人一人が「己のことよりまず他人のこと」という気持ちを持っていれば少なくとも、社会はこれ程悪くなっていなかった筈です。自業自得です。
世界には実に様々な宗教がありますが、どれもみな目指すところは「幸福」なのです。
仏教も正に人の「幸福」を追求した宗教なのです。
仏教とは「心の教え」だと言いましたが、それはつまり心の「安心」を目指したものだからです。
その旗頭が仏教寺院である筈です。しかし現実はどうでしょうか。
下記は最近の朝日新聞の「声」の欄に載った記事です。
「昨今、心を痛める問題が多すぎる。
とりわけ、この年の瀬に派遣社員の方が即刻解雇され、即刻社員寮を追い出されるという問題は、本当に胸が痛む。一体、日本はどうなったのか、どうなっていくのか、実に不安に駆られる。
ニュースで、解雇された若者がわずかな荷物を抱え寮を出て、公園で一夜を明かす姿があった。(一部省略) それにしても日本の仏教界はこの現実をどう見ているのだろう。
ニューヨークなどでは教会が率先してホームレスに食事を提供しているではないか。
日本でお寺が早々と困っている人たちに炊きだしをしたとか、境内にテントを張って避難場所を提供したという話を聞いたことがない。
葬式仏教になり、お寺と人々の関係が疎遠になったこともあるが、ここらでお寺が困っている人たちに手を差し伸べ、仏教の志を示して欲しい。
お釈迦様は衆生を救うためにこの世に生まれたのではなかったのか。」
(東京都女性77歳)
なんとも耳の痛い話ですが、反論は難しいようです。
日本全国には仏教系寺院が約7万7千ヶ寺余ありますが、ほんとうの意味での「駆け込み寺」になっているお寺が果して幾つあるでしょうか。
お寺は布教の道場であって福祉施設ではない。
福祉は行政が行うべきであるとの考えがあるようです。
が、私は非常時には寺院はそれなりの対応があっても良いのではないかと思います。
寺院と言ってもピンキリですから当然実状に応じての話です。
全国には格式的にも規模的にも立派なお寺は沢山あるのです。
仏教の本願は衆生済度です。
しかし残念ながら、上部組織や包括団体からの具体的指示はほとんどありません。
それは各寺院の自発的裁量に任かされているということでしょう。
しかし、仏教離れ、寺院離れが叫ばれている今こそエライ組織のエライ坊さん方から率先して「菩提心」のお手本を示されたらどうでしょうか。
先月とりあげた内山愚童師がもし現存されていたらどうされただろうかと、ふと考えてみました。
この寒空に放り出され途方に暮れている人たちを見過ごせず、恐らく自ら跳んで出て行かれたかもしれません。
このホームページでえらそうなことを言っているだけの愚僧とは雲泥の差です。
恥ずかしい限りです。
先日のテレビで、放り出された人に一人ずつ声を掛け親身に相談に乗っていた女性がいました。
絶望の人たちにとっては「地獄に仏」に思えたかもしれませんが、その仏役を務めるのは本来坊さんでなければなりません。
僧侶が施すのは法施だと言われますが、苦しんでいる人たちの身になって共に道を求めることも「法施」なのです。
そこで愚僧から一つの提案です。
本山僧堂や地方僧堂から若い修行僧の一団を救援活動に向かわされたらどうでしょう。
現場に赴き、最寄の寺院の境内を借りてテントを張り炊き出しをするのです。
全国にはコンビニの凡そ二倍の数の寺院が津々浦々にあるのです。
本山での坐禅や托鉢、作務だけが修行ではありません。
修行とは菩提心を学ぶことです。菩提心の実施訓練です。
もちろんパフォーマンスになっては絶対だめです。
菩薩の行持とは常に悩める衆生と共にあるのです。それが大乗仏教の本旨です。
行持が本物かどうかは見れば誰にでも分かるのです。自信が無いことは無い筈です。
で、その経費?それはもちろん宗務庁が全国の末派寺院から集めている賦課金から捻出すれば良いのです。
多分活きた使われ方だと言う人の方が多いと思いますが、いかがでしょうか。
今真っ先に弱者が切り捨てられています。
日本は最低の社会になってしまいました。
菩提心が無くなり我欲心が蔓延した結果ですが、もはやその原因と責任を問うている時ではありません。
とにかく、政府は勿論それぞれの組織団体は出来ることをすぐにでも行動すべきです。
で、仏教界はどうするのでしょうか。
曹洞宗はどうするのでしょうか。
合掌