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法話

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法話--平成21年5月--

こころ(11)-- 即心即仏(前編)--

無門関第三十則 「即心即仏」(そくしんそくぶつ)
「仏とは何ですか」という問いに、「心が仏だ」という、前回に引き続き"心の実体"に挑む公案です。

本則
馬祖、因みに大梅問う、如何なるか是れ仏。祖云く、即心即仏。

馬祖道一(ばそどういつ)禅師は六祖慧能禅師の孫弟子になるお方であり、特に禅宗五家七宗の基礎を築いたといわれる偉大な禅匠です。
その弟子には南泉、百丈、金牛、鳥臼などそうそうたる老古仏がおられます。
大梅もその内の一人であり大梅法常(だいばいほうじょう)禅師のことです。

その大梅が師の馬祖に質問します。
「いかなるかこれ仏」(仏とはなんですか) これに対して馬祖は、「即心即仏」だと答えました。
「即」とは「そのまま」という意味ですから、つまり「そういうお前の心がそのまま仏だ」と言ったのです。
大梅はその一言で悟ったのです。

「いかなるかこれ仏!・・・」 これは今でも修行中の若い坊さんが問答に使う最も一般的な一句です。
今回の公案もこれまでの「達磨安心」「平常是道」「非風非幡」などとまったく同じ「心の実体」を掴むための公案です。
入りくみが違うだけであってその狙いと答えはみな同じであって、どれでも一つ徹底すればあとはみな応用問題です。

若い大梅にとって全身全霊の突撃でした。
大梅は幼少から出家し、有数の大寺で修行を積み、仏教の根本問題を真っ向から提げ師の馬祖に迫ったのです。

問答はすべてそうですが、全身全霊で臨むものです。
特に室(しつ)にあっては師弟双方とも真剣勝負です。
師弟とはいえ問答に於いて上下関係はありませんからそこには一切の手加減も妥協もありません。
それだけに弟子は不惜身命の思いで立ち向かうのです。

故原田祖岳老師は独参に来る者の足音からその者の気概を感じ取り、やる気のない者には途中で鈴(れい)を振られたこともあったとか。
ながい修行によって培われ研ぎ澄まされた感性のなせる業と言ったらよいのでしょうか。

実際拙僧もまだ若い十代の頃の経験です。故伴鉄牛老師の室に独参に向かいました。
室に入るなり一言もなしに鈴を振られたことが幾度かありました。
鈴を振られれば次の者と交替ですから即座に三拝をして退室しなければなりません。
独参の室は緊張感で満ちていましたが、いつでも最高の香が焚かれていたことを思い出します。

この「即心即仏」も語意はいたって単純明瞭です。
しかしいつも言うように公案の答えは語意ほど単純なものではありません。
「心そのものが仏」だという、その「こころ」の実体をほんとうに会得するには並大抵のことでは叶わないのです。
馬祖でも南嶽のもとで十年の修行を積み、大梅も幾十年かの悟後の修行を徹底されたのです。

大梅は馬祖の下を辞して後、悟後の修行のため暫し山中に隠遁したのです。
その間たまたま馬祖の法嗣の僧が道に迷い大梅の庵に至り、大梅の消息が馬祖の知れるところとなりました。
その評判を聴いた馬祖は大梅の悟りの円熟度を知ろうとして一僧を遣わせたのです。

その僧が大梅を訪ねたときの問答です。
「和尚はかつて馬大師に参じられ大悟されたと聴きますが、どんな見識でここに住まわれているのですか。」

大梅はこたえました。
「かつて馬大師は私の問いに『即心是仏』と答えられました。そのことで今この山に住んでおる。」

その僧はさらに言いました。
「それが近頃は馬大師の説法は違います。『即心即仏』ではなく『非心非仏』と言われています。」

それを聞いた大梅は言いました。
「老漢(おやじ)はまだそんなことを言って人をたぶらかしているのか。
老漢が何と言おうと、私はただただ『即心即仏』だ。」

この話を聞いて、馬祖は言われました。
「そうか。そんなことを言ったか。"梅"の実は熟したな。」 大梅の"梅"という字にことよせて馬祖が大梅へ印可証明を与えたのです。

馬祖は大梅の悟境を試そうとあえて遣いの僧に「非心非仏」と言わせたのですが、大梅はそんな馬祖の魂胆をとんとお見通しでした。
「即心即仏」の境涯で応戦したのです。
では馬祖に「梅の実は熟したな」と言わしめたものとは一体何だったのでしょうか。

実にこれも一大公案です。
因みに無門関第三十三則が「非心非仏」です。
同じ馬祖の説法であり、この「即心即仏」に対応した公案です。
これら両則は表裏一体のものですから、一方が分かればもう一方も同時に分かるというものです。
したがって次の公案はこの「非心非仏」にしたいと考えております。

さて本題に戻りましょうか。
「心」がすなわち「仏」だというその"心"とは何でしょう。
これまでの公案をちょっと振り返ってみましょう。

「達磨安心」では「みつかりません」という"言葉それ自体"が「心」でした。
「平常是道」では「人の心と大自然」の"あるがまま"が「心」でした。
「非風非幡」では「動いている幡」"それ自体"が「心」でした。

「心とは、山河大地であり、日月星辰である」(正法眼蔵・即心是仏) 永平御開山は乾坤大地がすなわち"心"だと示されています。
つまり宇宙の森羅万象そのものが「心」だというのです。

「心のほかに何があるかい。乾坤大地ただこの一心じゃ。
そうすれば朝から晩まで、寝るから起きるまで、見るもの聞くもの、ことごとく一心じゃ。
また貧瞋痴と動こうが、食べたいと動こうが、憎い可愛いと動こうが、さては見るもの、見られるもの、きくもの、聞かれるもの、みな自己本来の一心だ。
山は高く水は長いのも、柳は緑、花は紅も、鳥飛ぶ、蝶舞う、風吹くに至るまで、わがこの一心でないものはない。
みなことごとく自己本来の一心三昧ならざるはないのである。」
(原田祖岳老師提唱)

星も月も、山河大地も、大自然それ自体が「心」であり「仏」であるという。
問題は人の「心」です。
人は朝起きてから寝るまでさまざまな心を持って暮らしています。
楽しい、悲しい、辛い、憎い、愛しいなど、みな人の「心」です。

順境には喜び、逆境にふさぎ込むのが人の「心」です。
そのような心には良い心もあれば悪い心もありますが、悪い心も果たして「即心即仏」と言えるのでしょうか。
禅はその心も即ち仏だと主張しています。
禅は決してでたらめなことは言いません。
ではそれはどう解釈したらよいのでしょうか。

ちょっと長くなりましたので、この辺であとは次回にまわすことにしましょう。

合掌

曹洞宗正木山西光寺