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法話

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法話--平成18年1月--

一切皆苦(2)--苦海こそ法海 --

お釈迦さまの亡くなった日が2月15日です。
仏教寺院では毎年この日お釈迦さまの入滅を記念しての法要が厳粛に修行されます。
この法要を涅槃会といいます。
降誕会、成道会、そしてこの涅槃会を三仏忌(さんぶっき)と申します。

これら三仏忌こそ仏弟子仏教徒にとっては最も大切にしている報恩感謝の法事なのです。
その回向には「波羅蜜の妙徳を修証し上み法乳の慈恩に報いんために・・・」と謳われ、お釈迦さまの大恩慈悲の御恩に報いるためのわれわれの心構えが提唱されています。
今回は今年も間もなく迎えるこの涅槃会に因み、「涅槃」をテーマにしてみました。

涅槃とはお釈迦さまの入滅を意味している言葉です。
入滅とは文字通り「滅に入ること」であり肉体の滅却であり「死」を意味します。
まずそのお釈迦さまの入滅の様子から伺ってみましょう。
お釈迦さまは35歳でお悟りを開かれて以来45年間人類衆生済度のため全国を説法行脚されました。

しかしお釈迦さまも肉体を持った人間です。
80歳になってからはとみに老いが進まれました。
それでも渾身の力を振り絞られ最後の説法の旅に出られました。
そしてやがてクシナガーラ城外の河畔にたどりついた時にはもう老いと疲れで歩くことも出来ず沙羅双樹の下に頭を北に右わきを下に横たわっていました。

お釈迦さまはご自分の入滅を悟り、弟子や人々を集めて最後の説法をされました。
それが「遺教経」に説かれています。お釈迦さまのまわりに弟子ばかりではなく天竜や動物や鬼畜までもが集まって泣き叫んだと言われています。
お釈迦さまはその悲嘆にくれる弟子達に向かって、これを慰め、常に精進することを諭され静かに目を閉じられ涅槃に入られたのです。

涅槃図にはその様子が細かく描かれています。
その最後の説法である「遺教経」はお釈迦さまの教えが集約されている聖典であり禅宗では特に大切にされている教典の一つとなっています。
本ホームページでもそのうち「仏教講座」のなかで是非とりあげていきたいと思っております。

さて、「涅槃」とはサンスクリット語で「ニルヴァーナ」と言います。
「吹き消すこと」の意味と言われ一切の煩悩がふき消された悟りの境地を意味するそうです。
また、原始仏教では貪欲の滅尽、瞋恚の滅尽、愚痴の滅尽つまり三毒がなくなった状態を涅槃と定義されているそうです。

そして涅槃には二段階ありお釈迦様が成道されてから入滅されるまでの肉体の存在する上での涅槃を有余涅槃、肉体が消滅してからの涅槃を無余涅槃と言っているようです。
大乗仏教では人間にもともとそなわっている仏性をさして自性清浄涅槃、生死と涅槃を超えての涅槃を無住処涅槃と申すそうです。
以上が学問的御託ですがこのような講釈は実におもしろくないものです。

そもそも「涅槃」にいろいろ区別や段階があるわけがないのです。
仏さまにいろいろ段階が無いように涅槃は涅槃であって一つなのですから。
そこで、まずお釈迦さまの死はなぜ単なる「死」とは言わず「涅槃」と言うのでしょう。
それは、お釈迦さまは「死んでも死なない」死を超越した存在になられたということなのです。

「死んでも死なない」などと言いますと宗教の非合理的理論の押しつけのように思われるかもしれませんが、この理屈を私なりの浅智恵の範囲でなんとか論理的に論じてみたいと思います。
これもまず御託から入りますがどうか聞いてください。

仏さまには、法身仏、報身仏、そして応身仏の3身があるとされています。
法身仏とはこの全宇宙そのものが仏さまのカラダそれ自体だという考えです。
つまり全宇宙の真理(法)の実態そのものを具現した仏さまなのです。

その仏さまが毘廬舎那仏(びるしゃなぶつ)と言われる仏さまです。
奈良東大寺の「大仏さま」が有名です。
(密教の方で申しますと大日如来がそれに相当します。)

毘廬舎那仏は沈黙の仏さまといわれ自らは説法しません。
その法を説くのは毘廬舎那仏の毛孔から宇宙の隅々まで派遣された無数の仏さまなのです。
その仏さまこそが釈迦牟尼仏であり「応身仏」と申します。
全宇宙の百千億の国々に出現されるというのです。
わがこの地球上にも2600年程昔インドに出世されました。

法身仏である毘廬舎那仏の「化身」として人類衆生済度のためこの地上に降誕されたので化身仏とも申します。
報身仏とは、修行の結果悟りを開き覚者となった仏さまということです。
つまり釈迦牟尼仏は、法身(ほっしん)、報身(ほうじん)、応身(おうじん)のすべてを具えた仏さまなのです。

このようにお釈迦さまの本質はもともと法身仏という全宇宙の本体そのものであるということです。
従ってお釈迦さまの「死」は単なる肉体の「死」を超越し本来の本質に戻られたということなのです。

つまりお釈迦さまは人間としての肉体は滅びたとしても、その本質は本来本法性の永遠不滅の「久遠仏」(くおんぶつ)なのです。
その本質こそが「涅槃」であり、涅槃そのものが宇宙実相の法身仏であるのです。

峰の色谷のひびきも皆ながら我が釈迦牟尼の声と姿と(道元禅師)

このように入滅されてもなお涅槃のお釈迦さまが而今に亘って我々を説法し続けているのです。
どうですか。「死んでも死なない」お釈迦さまの存在がわかりましたか。
しかし折角のそのお姿も生半可には拝見できません。

そのお釈迦さまに相見するためにはそれ相当の修行があっての結果なのです。
相見はなかなか難しいかもしれませんが「修行」と「悟り」は別のものではないのです。
「修証一如」を励みに精進しましょう。

新年明けましておめでとうございます。
昨年3月にこのホームページを起ち上げて以来アクセスをいただいた数は4500を超えました。
一人でも多くの人の参考になればと願っております。本年もよろしくお願いいたします。
本年も引き続きましてこの「法話」のページを重ねていきたいと思います。

今回は「一切皆苦」(その2)をお届け致します。
前回、喩えて言えば、人は「苦」という海の中を泳いでいる魚だと言いました。
苦という海に生きている以上その「海」から逃れることはできないのです。
四苦八苦の海が人生そのものだからです。

では一生その海の中で苦しまなければならないのでしょうか。
だとしたら本当につらいことです。
ではどうすればいいのでしょう。
実はその苦海にあって苦から逃れる方法があるのです。

それが仏教というすばらしい宗教なのです。
苦海を法海に変えていくのです。
まず、魚である自分を変えていくことなのです。
海自体は決して変わるものではありません。ではどのようにするのでしょう。

それは「魚」である自分をその「海」と一体化させるということです。
そのために自分自身を変えていくことなのです。
つまり「魚」という「自分」が「苦」という「海」に同化することなのです。
ちょっと難しい話になりましたね、別の喩えで聴いてください。

例えば、「火」は熱いものですね。あたりまえに思っていますね。
なぜでしょう。
それは火と自分が対立しているからなのです。
火それ自体は実は決して熱いものではないのです。(この点が難しいかな?)

火と対立しているから「熱い」のであって火それ自体は熱くも冷たくもないものなのです。
火自体は自分が「熱いもの」とは思っていません。(擬人的に)火が熱いものなのだという観念は、火に対しての対立観念なのです。
ここのポイントが大変重要なところなのです。ここをよ~く考えてみてください。

戦国時代、武田信玄の菩提寺山梨県恵林寺が織田信長の攻撃を受けました。
時の住職であった快川和尚の遺偈「安禅不必須山水滅却心頭火自涼」は特に有名な詩ですが、この句にその意味するところが実に良く表現されています。

【完全に禅定の世界に入ることによって心も体も区別が無くなる。
心と体の区別が無くなった時限でそれは火との区別も無くなることになる。
そこで全てが一体になる。
全てが一体になることはつまり火と一体になることである。
火自体は熱くも冷たくもないであるから、特に山の水を使わなくとも快適な涼しい世界に入ることができるのだ。】

という火との対立観念の無くなった世界・「空」の世界「涅槃」の世界を表したものです。
実に禅僧らしい境涯と言っていいでしょう。
そこで、その「火」を「苦」に置き換えてみてください。
全ての「苦」は対立観念から発生しているのであるからその苦と一体になることでその苦から解放されるということになるのです

苦海が法海に変わるのです。
それは自分が苦海に飲み込まれてしまうというのではありません。
自分と苦海が同時に成仏するのです。
イヤ、もともとお互いは成仏していたのでが、それが解らなかっただけなのです。
(ちょっと難しくなってしまったかな?)でも私はこれを単なる理論として言っているのではありません。空論でもありません。
事実を言っているのです。事実・真実を「仏法」と言います。
いま私はその「仏法」を論じているのです。
すべての対立観念が無くなった時点で「苦」が消滅するのです

そこに現れた世界を「法界」と言います。
涅槃の世界、安楽の世界、極楽の世界が出現するのです。
それが仏の世界なのです

幾万と悩める衆生をその仏の世界に入らしめんがために我が世尊釈迦牟尼仏は2500年来而今(にこん)に亘ってなお説法し続けているのです。
なんと尊いことでしょう。
それに応えることが「只管打坐(-しかんたざ-ただ坐禅すること)」であり、「一心称名」であるのです

あなたの仏様・・・お釈迦様であれ、観音様であれ、阿弥陀様であれ、お地蔵さまであれ、大日如来さまであれ、法蓮華経であれ、あなたの信ずるところの「ほとけさま」をお称えするのです。
「一心称名」が絶対条件だと説くのが観音経です。(仏教講座・観音経(1)のページを参照)是非あなたの仏様を信じてください。まちがいなくあなたはその仏様に救われます。これが私の結論です。

合掌

曹洞宗正木山西光寺