亡くなった人をほとけ様といいますね。
そのほとけ様への供養を追善供養と言います。
また何度も法事を行ったりして供養を致しますが、何故でしょうか。
今回はその「追善供養」の意味について考えてみましょう。
人は一人では決して生きてはゆけません。
個人を取り巻くすべての人達や物や環境などのお陰で生きていると言えます。
生きていくために限りない多くの恩恵をいただいていますし、ただ生きているだけでも多くの迷惑をかけているのが実態なのです。
このように人は生きていくために例外なく一生の間相当な「お陰」という「借り」を受けて生きているのです。
例えば、卑近な例として食べ物について考えてみましょう。
人は何かを食べずには生きて行けません。
豚肉を食すればそれは豚の命をいただくことになります。
牛肉をいただけば牛の命を、魚をいただけば魚の命をいただいているのです。
イヤ自分は菜食主義者だからといっても野菜の命をいただいているのです。
一日にお米何粒食べているでしょう。お米も籾のまま撒けば芽がでてきます。
生きているからです。
一生を考えると数え切れないほどのお米の命をいただいています。
このようにどんな食べ物であれその物の命を頂いて我が身の命を養っているわけです。
イヤ自分はお金を払っているから何の世話にもなっていないと言う人がいるかもしれませんが、そんなものではないのです。
宗教的にはすべて「頂いている」のです。
ですから、食事をするときには「いただきます」と合掌していただきますね。
それは「わたしの命を養うために
仕方なくあなた様の命を頂だかせていただきます。」との感謝の気持ちを表したものなのです。仏教徒として当然の作法です。
しかし、最近ではそんな躾も難しくなってしまいました。
家庭ばかりではありません。学校でも食事は食器を持たず、箸を使わず、「いただきます」も無く、先生の「ピーイ」という笛の合図で一斉に食べ始めると聞いたことがありますが本当でしょうか。
食事作法の崩壊から食文化や躾までおかしくなってしまいました。
話は元に戻りますが、このようにわれわれは例外なく一生の内をあらゆる「お陰様」のお陰で生きているのです。
ですから、そんな自分が亡くなってお坊さんにいい戒名を付けて頂いたのでもう立派な仏様になりました。それで終わりだという訳にはいきません。
生前の計り知れない多くのそれらの「借り」は一体誰が返すのでしょうか。
故人となってしまった本人はどうすることもできないのです。
その故人の「借り」を消却する方法が遺族、親族、縁者による「追善」なのです。
故人へ向けて「善」を送るのです。
この「追善」をもって故人の「借り」を相殺し消却していくわけです。
これがそもそもの追善供養の意味といってもいいでしょう。
しかし、膨大な「借り」は一度や二度の供養では及びがつかないのです。
だから人は亡くなって仏の世界へ入られてもすぐには完全成仏できないのです。
完全成仏は故人の「借り」が完全消却した時点なのです。
そのためには33年間の追善供養が必要とされているのです。
仏様にとって亡くなってから一周忌はいわば一歳の誕生日なんです。
三回忌は三歳、七回忌は七歳の誕生日でもあるのです。
そして仏様としての33回忌が「成人式」であり清浄本然忌と言うように完全無垢の奇麗な仏様に成るということです。
このように、新仏にとっての33年間は「垢おとし」の修行の期間でもあるのです。
その間遺族縁者はその修行の応援として追善を施すわけです。
その節目とされているのが年回供養法要なのです。
33回忌を弔い上げなどとも言いますが、その後は報恩供養として37回忌、50回忌と続いていきます。
われわれは親や御先祖有っての自分であり今日があるのです。
考えてみればわれわれみんな親に七五三を祝っていただきました。
三回忌と七回忌はいわば親への七五三としての恩返しなのです。
報恩感謝の教えこそ仏教なのです。
合掌