新年あけましておめでとうございます。
当山のページを見て頂いている方々にとって本年が佳き年になるようご祈念申し上げます。
平成最後のお正月であり、その「平成」もあと僅かで、5月1日より新元号に代わるわけですが、果たしてどんな元号になるのでしょうか。
ところで、元号があるのは今世界で日本だけだそうです。
飛鳥時代の「大化」に始まり、「平成」まで日本の歴史は実に247の元号と共に歩んできました。
特に今回は憲政史上初の退位による改元だそうです。
現在の今上天皇は初代神武天皇から数えて125代目にあたります。
今の天皇家は世界一長く続いている王家としてギネスにも載っているそうです。
日本は天照大神によって創建された神代からの国であるという国民の崇敬の想いが今日まで天皇家を支えてきたといえるかもしれません。
歴代天皇はまさに現人神として崇められ、天皇も国家国民の安寧を願ってこられた相思相愛関係にあり、まさに日本人の倫理観、宗教観の礎となっていると言えます。
現人神は、どんな政変があっても決して粛清されることなどない絶対的存在なのです。
日本での最初の元号は645年の「大化」が初めとされています。
西暦645年の「大化」にはじまり「平成」にいたるまで247の元号があります。
今の天皇が125代目とすると、昔は一代のうちに改元が何度も行われていたということになります。
明治憲法下で、天皇一代に元号ひとつとする「一世一元」が導入されましたが、元号は天皇が決めるという伝統は維持されました。
改元は天皇の御代替わりの際にしか行わないようにしたのです。
元号を天皇の権威を示す記号として付けるためです。
元号は、「天皇個人がその権威の象徴として、臣下に対して、自分の望む年の呼び方を強制する」という政治的が意味を強めるものでもありました。
大日本帝国憲法下での元号とは、最高権力者である天皇による権威を示すイベントだったのです。
ところが、戦後に元号はその法的根拠を失い、GHQにより元号そのものについてまったく明文化されなくなってしまいました。
政府は「事実たる慣習」としてなんとか元号を存続させた上で、ようやく1979年に「元号法」の制度にこぎつけたのです。
同法では、「元号は、政令で定める」とあります。政令とは、端的に言えば、内閣による命令です。ですから現代では、元号を決めるのは天皇ではなく内閣総理大臣なのです。
そんなわけで平成以降の元号はすべて首相が決めるということになりました。
そもそも「元号」の原点は中国だそうです。
漢の武帝の時代(紀元前140年)に「建元」と号したのが最古とされ、辛亥革命(1911年)清王朝が滅亡するまでのおよそ2千年ものあいだ元号は続きました。
中国の他に朝鮮やベトナムなどにかつて元号があったそうですが現在はありません。
では、なぜ日本だけが今も元号を使用し続けるのでしょうか。
その理由として、「積極的に廃止するほどの理由ときっかけがない」ためだとの分析があるようですが、拙僧的には、日本という国は、天皇を頂点とする八百万の神の国だからだと思います。
「キリスト教は、日本では昔も今もあまり普及していない。それはなぜか。まず言えることは、日本人にキリスト教は必要ではなかったことだ。なぜなら、キリスト教以上のものを、日本人はすでに持っていたからである。それは『天皇』である。」
こう主張されるのは、今日本仏教界で一躍注目を浴びている異色のドイツ人僧侶、ネルケ無方師です。
師の著書を拝読させて頂き、キリスト教文化からみた日本仏教文化との違いから比較宗教論まで拙僧自身大変勉強になりましたので、これから縷々師の諸説と御意見を紹介していきたいと思います。
先ず、師のご紹介をしましょう。
師は、ドイツ人で、幼くして洗礼を受けたクリスチャンでした。
その少年が神の存在に疑問を抱き、16歳で坐禅と出会い、京都大学に留学、様々な“修行”を経て、現在は兵庫県の山奥にある曹洞宗安泰寺の住職をしているというまさに異色の僧侶です。
さて、「日本人にキリスト教は必要でなかったのは、日本には天皇がいたからである」といいましたが、それはどういうことでしょうか。
師の著書の中からその答えを探してみたいと思います。
日本でのキリスト教徒の数は、世界的に見て大変少ないのです。
日本の人口に対して、国内のキリスト教徒は、たった1%弱といわれます。
これはアジアの国々の中でも格段に低い数字です。韓国では約30%、中国でも5~7%くらいのキリスト教徒がいると予測されています。
日本にはもともと神道がありました。
そこに全く異質な仏教がやってきたのですが、日本はすんなりそれを受け入れ、しかも仏教を国教に位置付けてしまったのですからまさに驚きです。
では、仏教に対してかくも寛容だった日本にキリスト教が根付かなかったのは何故でしょう。
その理由を知るには先ずキリスト教文化について知らなければなりません。
ネルケ無方師によると、日本人がキリスト教に違和感を覚えてしまう理由の一つは、「親子関係」に起因しているといわれます。
欧米では、父と息子は、ライバルのような、敵同士のような意識を持っている関係だそうです。
欧米の家庭には、親と子の間に、越えてはならない一線があり、親の世界に子供は絶対に入れないのだという。
日本には、欧米のような親子の境界線はない。日本の家庭は、子供にとって家中どこでも自由に出入りできるし、親の寝室にも入れる。
それに対して、欧米では親のベットルームに子供が無断で入ることは絶対に許されないという。
欧米のこの厳しい家庭環境は、基本的にはキリスト教が下地となっていると言われます。
神と人類の絶対越えられない境界線を、家庭内に持ち込んでいるのだという。
つまり欧米の親子関係は神と人間の関係の如くであり、子供にとって、親は恐ろしい神のような存在であるということです。
一方、日本の親は、「わが子は自分とつながっていて、まるで自分の分身のような存在」だと思っていると言われます。
だから自殺するときに、子供を連れて無理心中をしようとする親がいるのです。
欧米人には、そのような感覚はないそうです。
日本人には、クリスチャンが家のリビングに、十字架に吊るされ死んでいるイエスを飾る神経が理解できないし、聖書の神は厳格で、すぐ人類を殲滅させるとか、親と子、兄と弟がお互いを裏切るような残酷な話ばかり出てきます。
日本の昔話にも、恐ろしい話がありますが、聖書や欧米の童話のようなグロテスクさは感じられません。
こういったことも、キリスト教が日本人の肌に合わない原因であろうとネルケ無方師は分析されています。
日本人がキリスト教に馴染まない、もうひとつの理由に「隣人愛」があると言われます。
キリスト教徒は、隣人愛を説くが、なぜ彼らは戦争ばかりしているのか。
本当に相手を想う心があるならば、争い事などないはずではないか。もっともな疑問です。
問題は、「キリスト教徒が、なぜ隣人愛を説き続けなければならないか」である。
それは、誤解を恐れずに言えば、彼らの中に愛がないからだ。愛にあふれていれば、他人に向かって愛を説く必要はない。それがないからこそ、あえて「敵を愛せよ!」と説くわけだ。とネルケ師は力説しています。
欧米人が、“I love You”と何度も何度も言わずにいられないのは、「愛している」とお互いに確認していないと不安だからだ。愛を感じていないからこそ、“I love You. Do You love Me?”と聞いてしまうのです。
合掌