12月8日はお釈迦様がおさとりを開かれた日としての特別の日であります。
お釈迦様がお悟りを開かれたことを成道(じょうどう)と申します。
今回は予定でありました一切皆苦(その2)を来月に廻しまして、この成道会(じょうどうえ)についてお話させて頂くことにしました。
その昔、お釈迦様は菩提樹の下禅定6年の修行の結果12月8日暁の明星を見て活然と大悟徹底されました。
その瞬間一切皆苦の衆生を済度すべく応身仏としての釈迦如来が誕生されたのです。
爾来2500年に亘ってその真如の仏法が伝わってまいりました。
真如の仏法、その宝珠を得んがためにお釈迦様以来あまたの修行僧が命がけで修行してまいりました。
仏の教え仏法にはそんな命を掛けるだけの価値が実際あるのです。
ただ残念なのは今の時代命がけで法を求める真の求道者が見あたらなくなったことでしょうか。
そのお釈迦様のお悟りにあやかりまして、禅宗の修行寺院においては12月1日の早朝より8日の早朝までまる7日間最も厳しい坐禅の修行に入ります。
これを臘八接心(ろうはつせっしん)と言います。
12月を臘月(ろうげつ)と言いその8日をとって臘八(ろうはつ)と言います。
接心(せっしん)とは坐禅の集中修行のことです。
そして、この時期になると私がいつも思い出すのは初めて坐禅をした時のことです。
18才の時でまだ得度出家する前のことでした。
縁有りまして東京品川にあります東照寺というお寺の寮に入ることになりました。
御指導頂いたのは御住職でありました故伴鉄牛(ばんてつぎゅう)老師であります。
前夜坐禅の仕方を教わり、「明朝4時起床。接心に入る」という言葉を聞きました。
坐禅のことも接心の意味も分からずその場にぶち込まれたのでした。
チリンチリンという鈴(れい)を合図に参禅者達が先を争って独参(どくさん)に向かいます。
独参とは指導者である御老師の丈室に入り一対一で直接禅の指導を受けることです。
老師の振る鈴の合図を受けて喚鐘(かんしょう)という小さな鐘を三声して部屋に伺うのです。
三拝をしてから正座して御老師の膝元まで進みます。
合掌して、教わった通りの言葉で「数息感(すうそくかん)に参じています。」と申し上げました。御老師の鋭い視線を受けながら何を言われるのだろうと思っていました。
ちょうどその時でした。
お寺の玄関先に居た犬がワンワンと吠えました。
御老師はおもむろに口を開き、「今犬が啼いたがあの犬は何処で啼いたのか」と尋ねられました。
わたしは当たり前に「玄関先で啼きました。」と応えました。
すると御老師は手元の鈴を取りチリンチリンと振られました。
次の人と交替ということです。なんのことかまったく解らず退室しました。
初めての坐禅での初めての独参でのことです。今でも鮮明に覚えています。
当たり前の答えがまったくの的はずれという禅の世界へはじめて一歩を踏み入れた時のことです。
その意図する処とは一体何なのか。
あのお寺の玄関先で啼いた犬は一体「どこ」で啼いたのか?
やがて「無字(むじ)の公案(こうあん)」を頂き、明けても暮れても無字、無字ただ「無字」の単提(たんてい)でした。
何ヶ月もムームーと唱えたものでした。
伴鉄牛老師は原田祖岳老師の直弟子であり、その指導の厳しさは並大抵なものではありませんでした。
次回からの接心は情け容赦無いと思われるほどの警策(きょうさく)を戴きました。
一回の接心は五日間でしたが、何本もの警策が折れたものでした。
今では懐かしい思い出となっていますが、10代という若い時に夢中で取り組めた因縁に今では心から感謝しています。
その時の経験のお陰で今があると思っておりますし、その経験が無ければこのホームページも無かったのは確かだと思います。
禅は人を分別妄想虚構の世界から真実の世界に導いてくれる手法なのです。
本物と偽物の区別がつかない迷いの世界から本物の見分け方を教えてくれるのが禅です。
真実本物の宝珠の一端にでも触れてみたいと思いませんか。
合掌