真の「おもいやり」とは
原発への過信から、とんでもない事故が起こり、国家、国民に与えた損害は甚大なものです。一民間企業の事例としては史上最悪のものになるかもしれません。
このとんでもない賠償責任に果たして東電だけが負えるものでしょうか。
その責任を考えた時に、原発という巨大利権に群がってきた関連企業101社からなる日本原子力産業協会にも当然その賠償責任は及ぶべきでしょう。
あるマスコミによれば、その協会の埋蔵金は80兆円にもなるそうです。
東電ばかりにおっかぶせるのではなく、仲間としての責任と「おもいやり」を示して欲しいものです。
他人に危害や損害を与えた場合、それを償うことが、人間社会の責務であり常識です。
故意であれ、過失であれ、その責任は免れません。
その幅は罰金から死刑にまで及んでいて、人の命を危めた場合など、大変な償いを求められます。
あなたは、自分の命の価値をどの位に思っているのでしょうか。
少なくとも生命保険の死亡保証金の額では納得していない筈です。
もし、仮に過失であれ、あなたの命が奪われたら、相手にどのような賠償を求めるのでしょうか。
ご存知のように、お釈迦さまは、誤って毒茸を食べさせられたことがもとでお亡くなりになりました。
その「過失」に対して、お釈迦さまは、相手に何の非難も賠償要求もしませんでした。
それどころか、「私に最後の食事を供養してくれた最高の功徳者」だと称えたのです。
その御心は我々凡夫にはなかなか計り知れない境地ではありますが、その境涯こそ仏陀の大慈悲心に他なりません。
その仏陀の徳に少しでもあやかり、真の「おもいやり」とは何か考えてみたいものです。
前回に続いて大般涅槃経から学んでみましょう。
チュンダの供養
雨安居を終え、弟子とともにヴァーサリー市を出発した釈尊は故郷カピラドットウを目指し、さらに北に向かって歩き始めました。
いくつかの村を通過し、パーバー村につきました。
そして、鍛冶工チュンダの所有するマンゴー林に滞在することになりました。
これを知ったチュンダは大変喜んで早速釈尊を尋ね恭しく敬礼しました。
釈尊は法話され、チュンダは深く諭され、鼓舞され、喜びました。
そして、「尊い師よ、どうか明朝わたしの家で食事の供養を受けてください」と申し上げました。
釈尊は沈黙をもって、この申し出をお受けになったのです。
チュンダは、夜も明けないうちから様々な美味しい料理を作りはじめました。
用意ができたことを受け、釈尊は弟子とともに鍛冶工チュンダの家に行き、食卓につかれました。
釈尊はおっしゃいました。「チュンダよ、汝の用意した茸は私に供養しなさい。そして、残りの柔らかい食べ物、かたい食べ物を修行僧に供養しなさい」
チュンダは指示に従って、料理をそれぞれに供されました。
そして、釈尊は更にチュンダに言われました。
「チュンダよ、残った茸はすべて穴に埋めなさい。この茸を消化できる人は、如来以外に、天人の世界にも人間の世界にもいない」
チュンダは言われた通りに、残った茸をすべて穴に埋めました。
その後で、チュンダは釈尊に近づき、敬礼し、一方に座しました。
座したチュンダに対して、釈尊は法話をし、彼をさとし、鼓舞し、喜ばしめました。
そして、座より立って去りました。
このとき鍛冶工チュンダが供養した「茸」は、原語では「スーカラ・マッダヴァ」と言います。
漢訳では「栴檀樹耳」とか「柔らかい豚の干し肉」と訳されますが、日本では「毒茸」説が一般的です。
ところが、チュンダの家から帰る途中、釈尊は突然激しい痛みを感じ、下痢による出血が止まらなくなりました。
その苦痛に耐えながら、阿難に言われました。
「さあ阿難よ、クシナガラへ行こう」
「かしこまりました」と阿難は答えました。
釈尊は病をおして、バーヴァーからクシナガラへの道を歩いておられました。
やがてお疲れになったので、一樹の下で休まれることになりました。
そして阿難に言われました。
「阿難よ、私のために上衣を四重にして敷きなさい。私は疲れた。坐ろう」
ここで言う「上衣」とは、「僧伽梨衣」(そうぎゃりえ)と言って、二メートル四方位の大きな布のことで、体に巻き付けて「袈裟」として着ているものです。
上衣でできた床に、釈尊は坐して、阿難に言われました。
「水が飲みたいから、水を持ってきてほしい」
しかし、近くの小川の水は濁っていてとても飲めたものではなかったので、阿難は、「この先のカクッター河まで、辛抱なさいませ」と申し上げました。
しかし、釈尊の喉の渇きはひどく、三度も所望されました。
ついに阿難は「かしこまりました」といって、濁った小川に行きました。
そしたら不思議なことに、その小川の水は綺麗に澄んで流れていたのです。
阿難は、釈尊の神通力によるものだと感嘆しました。
そして鉢に水を汲み、釈尊に差し上げたのです。
そのとき、ブックサという商人が通りかけました。
彼は、一樹の下で心静かに休んでおられる釈尊を見て深く心を打たれました。
彼は釈尊の威光に深く感銘し、信者になりました。
そして、釈尊と阿難に柔らかい一対の金色の絹衣を献上しました。
阿難が釈尊にその金色の美しい衣をお着せしました。
すると、不思議なことに、釈尊の皮膚の色が金色に輝き出したのです。
すると、釈尊は申されました。
「阿難よ、如来は二度皮膚の色を金色に輝かせる。
この二つの時間に、如来の皮膚の色はきわめて清らかに、美しくなるのである。
一度目は、無上の仏陀の悟りを得た夜であり、二度目は、無余依涅槃界に入る夜である。
阿難よ、今夜の夜の終わる最後に、クシナガラのマッラー族の林の沙羅双樹の間で、余は般涅槃に入るであろう。さあ阿難よ、河へ行こう」
ブックサが持ってきた柔らかい金色に輝く一対の絹衣によって釈尊の体は金色に輝いたという、現代の仏像が一般的に金色に輝いているのは、この故事に来歴していたのですね。
釈尊は修行僧とともに、カクッター河へ行きました。
そして水に浸り、水浴し、水を飲み、対岸に渡ってマンゴーの林へ行きました。
そこで釈尊は鍛冶工チュンダに後悔の念の起こらないようにと説法されました。
「阿難よ、チュンダの後悔の念は、次のように排除されるべきである。
『汝の差し上げた最後の供養の食べ物をおあがりになって、般涅槃されたのであるから、汝は利益があり、大なる功徳がある』と、チュンダに伝えてほしい。
無上の供養に二つあり、一つは、如来が仏陀の悟りを得られた時の、その供養の食べ物であり、もう一つは、如来が無余依涅槃界に入られる時の、その供養の食である。 この二つの供養の食べ物は、等しい功徳があり、等しい利益がある。
鍛冶工チュンダは寿命を延ばす業を積んだ。
鍛冶工チュンダは容色を増す業を積んだ。
鍛冶工チュンダは安楽に導く業を積んだ。
鍛冶工チュンダは名声を増す業を積んだ。
鍛冶工チュンダは天界に生まれる業を積んだ。
鍛冶工チュンダは王権を得る業を積んだ。
阿難よ、このように鍛冶工チュンダの後悔の念は排除されるべきである。」
チュンダの後悔の念を取り除こうという、釈尊の深い思いやりの心が伝わってきます。
合掌