▲上へ戻る

法話

  1. ホーム
  2. 住職ご挨拶

法話--令和元年7月--

日本人の宗教観 その10 ― 天皇 その6―

巡幸は、沖縄を残して29年の北海道を最後に終わりました。
まさに“巡礼”であり、“行脚”でした。
天皇は側近に、「戦前からこうして国民と直接話ができたらいいと考えていた」と語られたそうです。

晩年、天皇は病床で「もう、駄目か」と言われました。
医師たちは、ご自分の命のことかと思いましたが、実は「沖縄訪問はもう駄目か」と問われたのです。
崩御される最後まで沖縄への巡幸を気にかけておられたのです。

最後の最後まで、国民に心を寄せられた陛下でした。
その昭和天皇の御心は、平成5年に今上天皇によって果たされます。
今上天皇による歴代天皇初の沖縄訪問でした。

その時、原稿なしで遺族を前に5分間にわたって、御心のこもったお言葉で語られました。
そのお言葉に、険しい表情であった遺族も、「『長い間ご苦労様でした』、というお言葉を頂き満足しています。お言葉には戦没者への労りが感じられました。陛下のお言葉で、また一生懸命やろうという気持ちが湧いてきました。」

「なぜか泣けて言葉にならなかった。沖縄のことを愛しているのだろうという気持ちがこみ上げてきた。」とある遺族は語っていました。
昭和天皇の遺志は今上天皇によって果たされ、昭和天皇が始められた御巡幸は、45年もの月日を経て一区切りがついたのです。

終戦翌年の昭和21年から29年にかけての全国巡幸は全行程3万3千キロにも及び、一日平均200キロの強行軍でした。
敗戦によるショック、虚脱状態にあった国民を慰め、励まそうとされた旅でした。

国民はそれまでの現人神(あらひとがみ)とされていた天皇の姿に直接触れ、国家再建の道を歩むことに大きな励ましと勇気を与えられました。
そのご恩に報いんとして、日本国民は一丸となって戦後の復興に邁進してきました。

日本人が特に重んじているのが礼節と恩義とそして感謝です。
それらは古来より神仏習合の宗教文化のなかで醸成されてきた、まさに日本人の倫理道徳観の根幹ともいえるものです。

そのお手本を見事に体現されたのが昭和天皇でした。
その例を、昭和天皇ご訪米のエピソードからご紹介しましょう。

当時(昭和50年頃)、天皇陛下に対するアメリカ国民の反応は冷ややかなものでした。
しかし、この時期に天皇陛下が訪米、その時に語られたお言葉により、その態度が一変したというエピソードです。

昭和50年、天皇皇后両陛下がご訪米された時のことです。
このご訪米までのアメリカ国民の反応は、「冷淡」「無関心」というものが多く、ご訪米が1ヶ月後に迫っても、アメリカのジャーナリズムでは天皇陛下の訪米は殆ど話題にはなりませんでした。

まして一般のアメリカ人はほとんど知らないし、関心も持っていませんでした。
アメリカ国民の日本に対する関心は経済面に集中しており、それ以外の事にはほとんど関心がないし、知りません。

ところが、天皇が訪米されてからその様相は一変します。
それまで「ニューヨーク・タイムズ」には、日米首脳会談のニュースでさえ一面に掲載されたことはありませんでした。

ところが、陛下がご訪米されてから、新聞は6日間連続トップ記事で、それも写真入りで掲載したのです。
陛下を目の当たりにし、全米では日を追って訪米歓迎の空気が盛り上がったのです。

なぜ、このように、訪米以前と180度違う対応になったのでしょう。
実は、アメリカ国民が心から感動し、天皇陛下を尊敬するきっかけがあったのです。
それは、ホワイトハウスでの公式歓迎晩餐会における天皇のお言葉でした。

「私は多年、貴国訪問を念願しておりましたが、もしそのことがかなえられた時には次のことをぜひ貴国民にお伝えしたいと思っておりました。

と申しますのは、私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争の直後、貴国がわが国の再建のために、温かい好意と援助の手を差し伸べられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べることでありました。

当時を知らない新しい世代が、今日、日米それぞれの社会において過半数を占めようとしております。 しかし、たとえ今後、時代は移り変わろうとも、この貴国民の寛容と善意とは、日本国民の間に、永く語り継がれていくものと信じます。」

敗戦後の日本が直面した大きな問題のひとつは、なんといっても食料難でした。
昭和20年の米の収穫量は平年の6割という明治38年以来の不作でした。
それに加えて、外地からの引き揚げ者、復員軍人などの人口増加で食料難は悪化するばかりでした。

国民の窮状を心配された天皇陛下は、このように言われました。
「皇室の御物の中には国際的価値のあるものが相当あるとのことだから、これを代償としてアメリカに渡し、食糧に代えて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたい。」

このように言われて、侍従に御物目録を作らせました。
しかし、この話を聞いたアメリカ側からは、御物を求められるどころか、無償で食糧を提供されたのです。

「御物を取り上げて、その代償として食糧を提供するなど、自分とアメリカの面目にかけてもできない。」
陛下の考えに感激した連合軍最高司令官マッカーサー元帥はこのように言われ、アメリカ本国に食糧緊急援助を要請し、これが実って日本の食糧危機は大幅に緩和されたのでした。

また、天皇陛下ご訪米当時、アメリカ人は国際政治や外交に自信をなくしていました。
この半年前に、世界史上に残る大きな屈辱となったベトナム戦争の敗北を経験していたからです。

第二次世界大戦後、アメリカは西欧や日本、そしてアジアに多くの援助を行ってきました。
ところが中には感謝の言葉どころか、反米運動さえ起こっている国もあったのです。

そのような時期に天皇陛下が訪問し、今までの援助に感謝を表明され、しかも日本国民の間に永く語り継がれていくと述べられたことは、アメリカ国民には救いと大きな喜びを与えたのです。

恩を恩として感じ、いつまでも忘れない、そういう天皇陛下のお心が米国人を感動させたのです。
人から受けた恩を感じて、長年にわたって感謝し続けることはなかなかできることではありません。

ましてや、戦争をした相手国です。
普通であれば心の中で様々な葛藤があるのは容易に想像できます。
しかし、そのような素振りも全くなく、心から感謝の気持ちを述べられる陛下のお姿に多くのアメリカ人は感動したのでしょう。

昭和天皇は、日本人が重んじる礼節、恩義、感謝の教範を見事に示されました。
天皇自らが国民の教範であり統合の象徴であるという観点からも、日本人にとって天皇はまさに宗教的存在となっているのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺