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法話

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法話--平成19年10月--

因縁(その7)-- 因果の道理歴然たり --

「今の世に因果を知らず、業報(ごっぽう)を明(あきら)めず、三世を知らず、善悪をわきまえざる邪見のともがらには群すべからず。
おおよそ因果の道理歴然(れきねん)として私なし。
造悪の者は堕ち、修善の者は陞(のぼ)る、豪釐(ごうり)もたがわざるなり。
祖師の西来(せいらい)あるべからず。」

この第四節では、因果の道理はまことに歴然たるものであり、昧(くら)ますことなど絶対にできないものであるという、因果必然の理法が示されています。

「今の世に」とは、「いつの時代のいつであれ」ということです。
「因果を知らず」とは、この宇宙に存在するすべてのものは因果必然の道理の下にあるという真理の法を知らずして、ということです。

「業報を明めず」とは、「業には応報があるという理法を知らずして」ということです。
「業」という字を辞典で調べてみると、「わざ」とか「なりわい」とかいう意味のほかに、「すでに」と読んで、「すでに為しおわったこと」という意味があります。
梵語では「カルマ」と訳されていますが、この「為したこと」という意味が重要です。

ここで少し「業」について"持論"を述べてみます。
まず「業」とは何でしょう。
それは人の「為したこと」によって生まれるエネルギーのことです。
エネルギーとは総じては目には見えないものです。
万有引力や磁気などの例をみてもわかるようにそのエネルギーは見えませんね。
従って「業」も目に見えない"エネルギー"なのです。

まず食べ物のエネルギーを例に考えてみましょう。
人が物を食べるという行為は食べ物のエネルギーを体に取り込むことです。
そしてそのエネルギーは代謝によって体力と気力として消費されるわけですが、そのエネルギーはまず一旦体に栄養として蓄積され、必要に応じて代謝、消費されるわけです。

さらに言えば、その代謝の仕方にはいろいろあります。
ある食べた物のエネルギーが一日で消化されることもあれば、10日かかることもあれば、半年以上かかることもあります。さまざまです。
それは消費には体内環境が拘わっているからです。
その環境条件に従って蓄積されたエネルギーは徐々に代謝、消化されるからです。
この理論は誰にでも容易に理解できることです。

次に、その「食べた物」を「業」に置き換えてみましょう。
人の「為したこと」が「業」であるから、人のあらゆる行為には業というエネルギーが伴うのです。
そして、食物のエネルギーと同じように業のエネルギーも一旦体に蓄積されます。
これを「宿業」(しゅくごう)と言います。

その宿業のエネルギーは同じように体内環境に従って代謝、消費されます。
その代謝、消費される時間は一様ではありません。短ければ刹那に消費されるでしょうし、長ければ何年にも亘ることもあれば、場合によっては来世に及ぶこともあるのです。

一つ一つの業のエネルギーの消費の時間はすべて異なるのです。
それは一つ一つの業の条件が異なっているからです。
その"条件"に相当するのが「縁」です。
つまり縁にしたがって業は確実に消費され応報という結果を迎えるのです。

このように宿業の一つ一つのエネルギーは縁に従って100パーセント消費され応報という結果となるのです。
つまり業とは応報という結果を宿したエネルギーといえるのです。
(我ながら上手い例えだと思いますが・・・いかがでしょうか?)

さて、次の「三世をしらず」とは、「因果は過去、現在、未来の三世にわたるものであることを知らずして」ということです。
今我々は「現在」に生きています。
現在があるということは過去があったからです。
ご先祖様という「過去」があったからこそ自分という「現在」が存在するのです。
自分の過去を辿ればそれこそ宇宙誕生まで遡ることになります。

これは未来に対しても同じです。
今の現在が「現在」であり、明日の現在が「未来」なのですから、未来があるということは厳然としています。
この理屈分かりますね? つまり未来を否定する人は過去も現在も否定することになるのです。
未来とは勿論来世も含みます。
未来も来世も否定する人のことを「三世をしらず」というのです。

「善悪をわきまえざる邪見のともがらには群すべからず」 「善悪をわきまえない」とは、善悪の区別が出来ないということです。
「邪見」とは、業報の道理を信じようとしないことをいいます。

「ともがら」とは、「輩(やから)」とか仲間という意味です。
「群すべからず」とは、仲間に入ってはだめだということです。
「類は友を呼ぶ」といいますから自分自身を高めなければなりません。
それには仏法を学ぶことです。

「おおよそ因果の道理、歴然(れきねん)として私なし」 「おおよそ」とは「実に」とかの強調でしょうか。
善因善果、悪因悪果という宇宙絶対の真理は「歴然として私なし」なのです。
「歴然」は、(れきねん)と濁りません。
「はっきりしていること」「明白なこと」という意味です。

「私なし」・・・公平無私ということです。これが大切です。
真理の法は人の身分や権力の有る無しにかかわることなく万物万人に対して絶対平等です。
この絶対不偏の平等のことを「私なし」というのです。

しかし、人の世には不公平なことがあまりにも多すぎます。
それは国の秩序や法律を決めているのが権力者だからです。
その最たる者が独裁者です。自己中心の悪中の悪、悪の権化です。
どこかの国の将軍様が背負っている悪業の量が見えるものなら見てみたい気がしてなりません。
悪い好奇心でしょうか?

とはいえ、民主主義でさえその政治や経済を牛耳っているのが権力者であることを考えると、過去にも未来にもそういった人達が自分たちに都合の良いようにするのが人の世かもしれません。
理不尽ですがこれが人間界の宿命なのです。

しかしですよ、真理の法の下ではどんな権力者であれ平民であり絶対平等なのです。
悪事には悪報の裁きが待っているのです。
業報は正に「私なし」にやってきます。その例が次の句です。

「造悪の者は堕ち、修善の者は陞(のぼ)る、豪釐(ごうり)もたがわざるなり」 文字通りに、悪いことをする者は堕ちて、善いことをする者は陞る、ということです。
堕ちる処と言えば地獄、餓鬼、畜生や修羅界のことであり、陞ると言えば声門、縁覚、菩薩、仏の世界のことです。
地獄も極楽も過去、現在、未来の三世に亘ってれっきとして存在するのです。

「豪釐(ごうり)もたがわざるなり」 豪釐の豪は毛筋のことであり、釐は厘と同じで、一銭の十分の一をあらわす単位です。
「豪釐」とはウサギなどの極細の、毛先の見えない位の太さのことで、極めて僅かという意味です。
「たがわざるなり」とは「違いがない」とか「狂いがない」という意味です。

悪いことをする者は餓鬼道や地獄道に堕ち、善いことをする者は仏界や極楽に陞るという、この因果業報は、極細の毛筋ほどの狂いもなく間違いなくやってくるということです。
しかしその「法」を知ろうともせずに悪事を働く者は浜の真砂のように尽きません。

オレオレ詐欺も一向に減りません。
私事ですが、つい数日前、家族がオレオレ詐欺に遭いかけました。
義母が孫を装った詐欺グループにだまされかけたのです。
その途中で私にも家族から連絡が入ったのですが、私もはじめは信じてしまったくらいです。
有り難いことにすんでの所で助かりました。
今まで自分に限ってはと思っていましたが、甘かったと思いました。
みなさんもどうかくれぐれも気を付けてください。

さて毎日のニュースをみても、己の欲望に負け因果業報も信じない人が悪事を働くのです。
このところ餅菓子メーカー「赤福」、比内地鶏の偽装事件などが連日報道されています。
ちょっと前に白い恋人や不二屋の偽装事件が大きく騒がれたにもかかわらず、なんの警鐘にもなっていません。

悪事は重ねる毎に鈍感になり罪意識も薄らいでいきます。
そして高を括るようになり、発覚するなど思いもよらなくなってしまうから恐ろしいのです。
しかし、因果業報は"歴然"としています。
今日は例の北海道のミートホープ社の元社長らがついに逮捕されました。
己の手錠の姿など夢にも思わなかったことでしょう。

まさに有頂天から急転直下奈落の底へ堕ちてしまいました。
(有頂天とは仏界のうちの形のある最上の世界のことであり、奈落とは梵語で地獄の意味です。) 間違いなく「造悪の者は堕ち」るのです。
そしてつくづく失った地位や名誉、誇りの大きさに気付くのです。
哀れとは正にこのことです。

このほか訪問介護事業者による介護報酬の不正請求の事件などがありました。
どれもこれらもみんな貪欲の毒にかぶれ善悪の判断ができなくなった結果です。
"邪見のともがらに群する"とそのような犯罪組織に引き込まれるのです。
そんな我利我亡者を待っているのが悪業報なのです。
世の中には表に現れない組織犯罪はゴマンとあります。気をつけましょう。

この他には、前防衛事務次官の問題や、亀田一家の問題がありました。
彼らの特徴は世間を見下した傲慢横柄なキャラクターと倫理観の欠如です。
天皇とまで呼ばれすっかり成上がり者になってしまった守屋氏。
高慢ちきで非常識なそんな男が日本の防衛の長だったとは日本の恥です。
彼もまたこれからじっくり煉獄の業火に炙られることでしょう。

もう一方の成上がり者の亀田一家。馬鹿なパフォーマンスにマスコミもすっかり乗せられてしまいました。
人を喰った無礼な態度も"絶好調"でした。
しかし世の中そんなに甘くはありませんでした。
こちらも有頂天から奈落の世界に真っ逆さま。
「私なし」の法は身勝手な彼らにとっては非情でした。
でも若い彼らです。業報の道理を学んで出直してもらいたいものです。

あとマスコミに言いたいのは、あのくだらないパフォーマンスを初めは是認しておきながら今では手の平を返したように一斉にバッシングの嵐です。
自分たちの責任は感じていないのでしょうか。
はっきり言って卑怯です。

「若し因果亡じて虚(むな)しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来(せいらい)あるべからず」 もし万が一にも因果の理法が虚妄な、あやふやなものであるならば、諸仏もこの世に出現される必要はなかったし、達磨大師が西天(インド)から、はるばる支那へと仏法を伝えに来る筈もなかったということです。
つまり、因果の理法が仮にデタラメなものであるならば、お釈迦さまの悟りもなく、仏教などという宗教も生まれなかったということです。

善因善果、悪因悪果の理法の万古不易なることをあらためて肝に銘じたいものです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺